高森明勅

斎田抜穂の儀

高森明勅

皇室・皇統問題
2019年 9月 29日

9月27日、11月の大嘗祭を控え、「斎田(さいでん)抜穂(ぬきほ)の儀」
が執行された。
悠紀(ゆき)地方は栃木県高根沢町、主基(すき)地方は京都府南丹市の
「斎田」において、大嘗祭で天照大神(及びその他の神々)に備えられる
新米の収穫が、それぞれ行われた。

この両地方からの新穀の献上は、“全国民”の奉仕を「象徴」する。
だから本来、国内のあらゆる地域が、両地方に選ばれる可能性を秘めて
いなければならない。


ところが古代統一国家の衰えと共に、そうではない時期が暫く続いた。

先ず、平安時代の60代・醍醐天皇から悠紀は近江国に固定してしまう。
主基は丹波・備中・播磨の3ヵ国から選ばれるようになった。
やがて、その中から播磨国が脱落する。
64代・円融天皇から主基は丹波・備中からしか選ばれなくなる。
そうした状態のまま、103代・後土御門天皇の後、戦国時代に突入して、
天皇の代数で9代、期間の長さで221年間にわたり、大嘗祭が中断した。
江戸時代の113代・東山天皇の時に再興されて以降、悠紀は近江、主基は
丹波に固定した(但し114代・中御門天皇は大嘗祭を行っていない)。
そうした形が121代・孝明天皇まで続いた。

明らかに本来の“あるべき姿”からは外れていた。
そうした状態を打開したのが明治維新だった。
明治天皇以降、再び全国のあらゆる地域が悠紀・主基両地方の対象とされ
得るようになった。

古代統一国家の衰退と共に縮小していた在り方が、近代統一国家の形成に
よって、
再び本来の姿を取り戻したと見る事ができる。
大嘗祭は単なる文化遺産などではない。
むしろ、国家の公的統治、国民統合の状態と、“パラレル”な関係にある。
この度の大嘗祭も、そうした歴史的パースペクティブの中に位置付ける
事が
できる。
栃木県・京都府の斎田決定も、前近代の矮小化した大嘗祭のままなら、
とてもあり得なかった。

【高森明勅公式サイト】
https://www.a-takamori.com/