昨日のゴー宣道場でも紹介した『中央公論』2月号のルポ「初の女性首相」という左右双方への踏み絵(河合香織)は、さまざまな論点(というかツッコミどころ)が提示されている。
すべて紹介しきれなかったので、あらためて整理しておきたい。
記事は、有村治子・辻元清美・森下千里・山本佐知子・山尾志桜里・金子恵美の6人の女性政治家(元職含む)へのインタビューで構成されている。
①イデオロギーより性別を優先?
高市首相誕生でリベラル層が「手放しで喜べない」と複雑な反応を見せたのに対し、金子はこう語っている。
「高市さんで無理なら、今後なかなか女性にチャンスは来ないだろうという局面なのに、(2024年の総裁選では石破を支持して)結束しなかった」
「普段は女性リーダーを求めていた人たちが『女性なのにリベラルではない』というイデオロギーを優先させた批判ばかりしているのは奇妙に感じました」
この金子の感覚こそ、私には奇妙に感じられる。
女性首相誕生のためなら、自分の思想信条など捨てろ、ということか?
突き詰めればこれって、「女なら誰でもいい」となるのではないか?
政治家なのにイデオロギーよりも属性を見ろ、というのであれば、それこそが属性の逆差別ではないのか?
しかも高市はネトウヨを岩盤支持層にした安倍路線を継承しているのだから、高市という「名誉男性」を首相にすることで、永田町の男尊女卑構造はさらに強固になるのではないか?
高市を女というだけで支持する女性は、それでいいと思っているのか?
そこに、山尾がさらにリベラル批判をするからワケがわからなくなってくる。
「『女性首相ならば当然、政治的にリベラルであるべき』という、性差に基づく固定観念を押し付けがち」だと。
性差に基づく固定観念の押し付けは、確かに良くない。
そうした無意識は意識的に変えていかなければならない。
しかしそのことが、「女なら誰でもいい」という主張を正当化する理由にはならない。
山尾は一部のリベラルの意見を批判することで、全体の正当性や合理性を説明するようなコメントをその後もしているのだが、これは倉山的ウンチク無理筋論法である。ひと言でいうと「こじつけ」なのだ。
挙げ句、河合は「混乱するリベラルに対し、保守陣営は結束」と、有村治子のコメントを紹介している。
「選択的夫婦別姓を推進してきた松島みどり衆議院議員が、慎重・反対の論陣を張ってきた高市陣営に現れた時は印象的でしたね。『私の主義主張よりも、日本で女性総理が誕生する歴史を作りたい』と」
これを河合は、「現実主義を尊ぶ保守派は『歴史』を実現するために、個人的な信条すら呑み込んで結束していたのだ」と書く。
いや〜〜〜、私が松島議員の支持者なら、「そんなことで主義主張を変えないでくれ」と思うけどな。
「女なら誰でもいい」と思ってしまうほどに永田町で女が軽んじられてきたのだとするなら、そっちのほうを問題視すべきだろう。女どうしの保守・リベラルの対立構造を描くだけで終わらせるべきではない。
ここで辻元のコメント、「クリティカルマス(決定的多数)」の考え方が紹介されている。
まだまだ女性は少数派であり、その人たちが声を挙げることに対して、「『女性のくせに女性首相を応援しないのか』と女性の中から攻撃するのは間違っている」と辻元ははっきり言っている。
まったくその通りだと思う。物事を一番冷静に見ているのは辻元だ。他の女性たちは、「女性初」に浮かれきっているようにしか見えない。
②「ガラスの壁」への向き合い方
辻元は「ガラスの壁」についても述べている。
組織が危機のとき、失敗するリスクが高いときにだけ、女性がリーダーに抜擢されるという現象だ。
高市首相誕生は、「麻生太郎さんら自民党実力者の思惑が交差する権力闘争の中で、右派のシンボルのような彼女は神輿に乗せられた」と。
私もそのように見ている。神輿に乗せられて喜んでいる場合ではない。それってただの「都合のいい女」なのだから。
有村もまた「ガラスの壁」があることを認めている。
しかし有村には、「危機の局面で回ってきた機会であっても、意味ある形にするべきだという覚悟が滲む」と、河合は書いている。
それが具体的なコメントとして紹介されてはいないが、インタビュー時にはいろいろ話を聞いたのだろう。ガラスの壁に苦しみながらもそれに立ち向かう女性・・・というニュアンスが読み取れる。
そこで河合はこう分析してみせる。
「男性権力による『構造的な搾取』を指摘する辻元に対し、有村はあくまで危機を逆手に取って実力で認めさせる『個人の能動性』を信じる。高市の首相就任を『利用された』とみるか、『利用してのし上がった』と見るか。その差は、リベラルと保守の生存戦略の違いを映し出しているのかもしれない」
全くわからん。
そもそも何かリベラルで何が保守なのかも明確になっていないから、これが「生存戦略の違い」などという指摘もしっくり来ない。
そもそも男社会の中で生き残る術を分析すること自体、男社会を大前提としているわけで、そこはツッコまなくていいのか?というツッコミを入れたくなる。
私はこの一文を読んで、だいぶ昔にある自衛隊高官(男)とちょっとした国防談義をしたことを思い出した。
「日本はいつまでも日米同盟ばかり言ってないで、自分の国ぐらい自分で守れるようにならなければ。自主独立こそ目指すべき国のあり方だ」と言う私に対し、高官(男)は、「このコムスメ、何もわかっちゃいねえなあ」とばかりに鼻で笑って、こう言ったのだ。
「日米同盟を続けていくことのほうが、メリットがあるんだよ。日本は、アメリカの力をうまく利用していけばいい。これまでそうやってきたんだし」
あたかもそれが現実的なオトナの意見であるかのように言った、そのときの高官(男)の態度を今もまざまざと思い返すことができる。
日頃から米軍と親密な関係を築いてきて、もはや米軍ナシのオペレーションなどあり得ない。それが日常であり、当たり前になっているのだろう。
ついでに言えば、米国が「日本ではない」ことを深く考えてもこなかったのだろう。
この国と命をかけて戦った先人たちの存在など、彼の脳ミソには1ミリもなかったのだろう。
あまりに見事な属国根性!!!
アメリカを利用していけばいい。ある時期までは、それがまかり通っていたのだろうし、それしか方法がなかったともいえる。
だけどそれは、いつの日か捲土重来、それまで臥薪嘗胆、そういう心意気とセットだったはずだ。しかし戦後も何十年か経ったら、内に秘めていたはずの心意気がきれいさっぱりなくなった。「強い者を利用すればいい」なんて負け惜しみを言うだけならとても楽チン、かくして属国根性はさらに強化され、属国日本はますます固定化。誰もそこに疑問を持たなくなった。
永田町とて同じことではないのか?
辻元が指摘するように、高市は神輿に乗せられた。
現時点では、アメリカにもネトウヨにも媚びる姿しか見ていないので、高市が「利用してのし上がった」などととても言えない。「個人の能動性」も到底あるようには思えない。既存の男社会に迎合してきた女が、首相になった途端に自分の意志で能動的に動くなんて、希望的観測が過ぎる。
もちろん女が「ガラスの壁」に直面して、それを承知で歯を食いしばって頑張る。その意気や良し、全く否定するつもりはない。
しかし、「ガラスの壁」を作り出している、日本人の脳髄まで染みついた男尊女卑は、うるさいぐらいに指摘しておかなければならない。
女が黙って「ガラスの壁」に耐えるなんて、そしてそれが「保守の生存戦略」だなんて分析は、男社会をさらに強固にすることにしかつながらない。
辻元のコメントは生存戦略でも何でもない、ただ言うべきことをきちんと指摘しているだけだ。そして、「利用してのし上がった」などという認知バイアスがかかりまくった言説は、男性超優位社会という本質的な問題をも覆い隠す役割を持っていることを忘れてはならない。
③高市を支持する女性は「生活者としての保守」?
後半、記事では高市を熱狂的に支持する女性たちの存在にフォーカスし、河合はこれを「生活者としての保守」と書いている。
もはや特集テーマに合わせる形で保守だのリベラルだのと書いているように感じられるので、何をもって「生活者としての保守」なのか、さっぱりわからない。
フェミニストではない、生活者としての保守の女性たちは「早苗ちゃん」というわかりやすい強さに熱狂し、自律的に動き始めていた。組織を基盤にした旧来の「エリート保守」から、大衆に支えられた「生活者として保守」へ。高市首相の誕生は、保守の射程が広がっていく現象でもあるのだろうか。
保守の射程???
正しくは、「女」という属性に過度に期待し、浮き足だつポピュリズムでは?
河合は、最後に「もはや『女性だから期待する』『女性だから失望する』という時代ではない」と書いている。その通りだと思う。
ならば、「保守の射程が広がる」云々ではなく、女性だから高市に期待している金子や山尾、有村を批判すべきだろう。
政治家なんだから、政策本位でなければ。
男も、女も。
女性首相が誕生した今だからこそ、胆力が試されるのだ。
それは、本質的な問題から目をそらさない力のことだ。
女も、男も。