高市コラム全消去について書いた記事は、タイムリーさもあって普段よりも数多くSNSでのシェアや「いいね」を集めています。
それ自体はもちろん嬉しいのですが、一時のバズりそれ単体は大目標(愛子さまの立太子や、日本の本質的な自主独立)においては本当に小さなものでしか無いですし、高市批判を書くにせよ、単なる一時的なカタルシス解消になってしまっては、何の意味も持たないと感じます。
保守、リベラル、中道。どんなラベルを貼るにせよ、「思想」と呼べるものには、これまで、そしてこれからも含めた「連続性」が不可欠です。
高市コラムの件に関しては、過去の消費税に関する意見が現在の主張と異なっている事が本質的な問題ではなく、(あえて「説明責任」という部分を脇においても)思想の連続性に直結する文章を、消去という形で無にしようとする、その精神性の幼稚さが一番「不気味」なポイントです。
過去と現在の主張の違いを問われた時、それが思想に基づく変遷の結果であれば、むしろ「良くぞ聞いてくれました!」というレベルの、現在の主張の正当性を裏打ちする上での最高の材料になるはずです。
それを、刹那の不都合感で消してしまうという行為は、連続性の破壊に他ならない。少なくとも、どんなニュアンスであろうと「保守」という自称には全くそぐわない態度です。
過去から未来への「歴史の縦軸」から遊離した人格は、その時々の刹那を漂い続ける「砂粒の個」に他なりません。
そうした砂粒の個にとって、自身の不安を誤魔化すために最もお手軽なツールとなるのが、教条のパッケージ体である「イデオロギー」です。
イデオロギーには、不都合な存在を抹消しようとする負の性質が存在し、その矛先は他者だけでなく時に「過去の自分」にも向けられます。
やがて、そうした「仕草」に慣れすぎて中毒的になると、もはやイデオロギーとの整合性もどうでも良くなり、現在その瞬間だけの取り繕いのために行動するようになる。
「ネトウヨ」と呼ばれる存在は、こうした中毒の一形態に他なりません。だから、中国への空威張りを称賛しながらアメリカには媚びへつらう、皇統の安定や国民と皇室の関係性を壊してしまっても男系男子固執する、といった矛盾に何の疑問もわかないのです。
高市コラムの全消去は「ネトウヨがSNSアカウントを消した」というのと同レベルの行動と言えるでしょう。
なお、上記の構造は固着した思考停止の「護憲絶対」といった態度などにも当てはまります。本質が一緒だったら、暴力的な世界情勢への不安が高まる現在の世相の中で「一見すると強そうに見える」ネトウヨ仕草を蹴散らせる力にはなりません。
一貫すべき連続性とは、主張の文面そのものではなく、その変遷と現状、そして希求する未来という軸にこそ宿るものです。
今回の極端な自民大勝という現象の後に、一時的なドーパミン放出テクニックのチキンレースに陥らず、いかに連続性を持った思想の軸を熟成させられるか。日本の未来は、本当にその一点にかかっていると思えてなりません。