高森明勅

「武装せる天皇制」へのノスタルジー

高森明勅

2016年 11月 9日

あるタイプの「保守」系知識人らが、
天皇陛下のお気持ちになお背こうとしている。

いまだに摂政を立てろとか、
国事行為の代行ではどうか、
あるいはご公務の軽減を図れ、
せめて譲位は一代限りにせよ、
などと。

情けなく嘆かわしい。

これは一体、何故か。

彼らの頭脳を支配しているのは
「武装せる天皇制」(林房雄)
への(自覚なき)
ひ弱な郷愁ではないか。

明治以降敗戦迄の天皇の在り方こそ“永遠”の模範的な姿と
無意識のうちに)思い込んでいるのか。

統治権の総攬者で大元帥。

譲位も火葬も認めず、大がかりな「復古」式の殯(もがり)
行事が
新しく創られた。

それらが必要で重要な意味を持った時代があったのも確かだろう。

しかし、未来永劫それを固守し続けなければならないかと言えば、
そうではない。

現に、陛下はもはや大元帥ではいらっしゃらないし、
その地位の回復を望む声は皆無に近く、
実際にその必要もないはずだ。

統治権の総攬者という地位についても、ほぼ同様だろう。

保守系論者の口からも、それらを復活せよ!
という明確な主張は余り聞かない。

にも拘らず、(本来、「武装せる天皇制」の構成要素に過ぎない)
譲位については頑なに抵抗しようとす
(以前は火葬にも難色を示した)。

「武装せる天皇制」そのものの復活を訴える思想的な
節操も度胸もないのに、その“
俤(おもかげ)”には
しがみつきたいようだ。

みっともないこと夥(おびただ)しい。