大須賀淳

「レアアースによるステルス侵攻」という、世界大戦の「前哨戦」

大須賀淳

2026年 1月 14日

文化人類学者・漫画家の都留泰作氏による下記のnote記事、大変興味深い内容でした。

 

「レアアース」という言葉が隠しているもの――便利な文明は、誰の引き受けた“汚れ”の上に成り立っているのか

 

文中冒頭で述べられている内容に違わず、私も「レアアース」というものは、鉱脈のある地域や埋蔵量自体が非常に希少な物なのだという認識しか持っていませんでした。

 

しかし実際には、レアアース資源自体は地球上に広く分布しているものの、精錬の過程で強酸・強アルカリ・放射性物質などが排出され、深刻な環境破壊をもたらすため、おいそれと生産できないからこその「レア」なのだという事が解説されています。

 

そのため、アメリカ、ヨーロッパ、日本などの「民主主義的な西側各国」は1980〜90年代にレアアース生産を次々と放棄した一方、中国は環境負荷・健康被害を無視して(内モンゴル自治区などの地方に押し込め)生産体制を国家戦略として押し進め、現在のレアアース覇権を得た、という構図があるそうです。

 

周知の通り、各種のレアアース無くしては様々な先進技術・デバイスがほとんど成立しません。中国は、目に見える軍備の面でも強大な体制を構築していますが、この産業・生活の生命線となる資源の補給路を握るという、ある意味では核兵器以上に強力な威力となる部分への「ステルス侵攻」を、既に40年以上前から(中国という、民主主義も人権もへったくれも無い国家だからこそできる手法で)進めていたという事になりますね。

 

もし「第三次世界大戦」が勃発したら、後の歴史書ではこの「レアアースによるステルス侵攻」が、重要な前哨戦として定義されるかもしれません。

 

上段で「もし」と書きましたが、世界大戦を(宣戦布告の有無を脇に置いた上で)「世界中の国家を交えた総力戦」という側面で見るなら、既に現在は世界大戦の真っ只中ですし、さらに言えば近代以降「世界大戦ではなかった時期」など存在しないのでは?とさえ思ってしまいます。

 

そもそも、国連憲章によって「武力による威嚇および武力の行使」が原則禁止されている中においては、正式に「戦争を開始する」と宣言すること(宣戦布告)は、自らが侵略者であるとされてしまうリスクを伴うため、第二次大戦後の戦争は明確な宣戦布告ではなく「戦争(交戦)状態にあると認める」といった曖昧な事後承認によって「開始時期」が定義される場合が大半です。

 

それを思うと、「世界大戦」という定義を、20世紀前半の第一次、第二次の形態に照らし合わせる感覚はあまりにも古すぎ、迎合・反発の両方を含んだグローバル体制の中で「常時世界大戦」にあるというのが、現状の一番正確な姿なのかもしれません。

 

この構図を日本国内の歴史に準えてみると、過去2回の大戦は戦国時代前半までの「やあやあ我こそは…」と様式美的な名乗りから戦が始まっていた、語弊を恐れずに言えば「牧歌的」ですらある時代のスタイルと言えるかもしれません(日本の戦のスタイルは、鉄砲という「最新テクノロジー」を効果的に活用した織田信長以降、すっかりフェーズが変わったと言えるでしょう)。

 

「レアアース侵攻」は、生産地域の環境や人々の健康を度外視した「外道の所業」(日本の特攻作戦に用いられた表現)ですが、それを中国は、ギリギリの状況でもない「平時」において(一撃必殺(死)の特攻よりは「緩やか」だとしても)継続的に行っていたわけですし、もっと恐ろしい事に、日本を始めとする世界各国は「その産物無しに生きて行けない」状況にされてしまいました(これちょっと「アヘン戦争の意趣返し」みたいな皮肉を感じてしまいます)。

 

先述の通り、私は現代を「常時世界大戦」の戦時下と認識しており、場合によっては火器による交戦以上に絶大な戦果を、あらゆるステルス的な手段で、それも「国家以外の存在」も上げられる時代だと思っています。その代表格の一つが「統一協会」ですね。

 

もうハッキリと言っちゃいますが、一応は国家機関では無いはずの宗教団体風・実態は政治結社である統一協会にすっかり蹂躙されてしまっている高市首相及び自民党は「能天気パー」集団であり、常時世界大戦下においては、国家を担う資質を持たない木偶の坊だと私は認識しています。

 

2/14開催のゴー宣DOJOのタイトル「世界大戦は始まるのか?」は、私自身の解釈としては既に現在は戦時(「平和」の対義である「混乱」)であるという状況を踏まえた上で、あえて「始まるのか?」という疑問形のネーミングがなされていると解釈しています。

 

最後に、冒頭で引用した都留泰作氏の記事中にある「世界は、誰かが黙って背負った“見ないふりをされた負債”の上で回っている。」という言葉。これは特定のテーマに限らない、グローバルからローカル、さらには「公」から「私」にまであてはまる、非常に重い示唆だと感じました。これから同氏の他のnote記事も色々と読んでみますが、一度深く議論をしてみたい・聞いてみたい、とても気になる存在となっています。