高森明勅

最高裁、夫婦「同姓」合憲判決

高森明勅

2015年 12月 18日

12月16日、最高裁は民法の「夫婦同姓」を合憲とする判決を
下した。

当然だろう。

民法は夫婦が同一の姓(氏・名字)とすべきことを求めているだけ。

それが“夫の姓”でなければならない訳では勿論ない。

だから2人で話し合って、どちらかに決めたら良い。

これで何故、女性差別なのか?

原告側は、実際はほとんど女性が改姓していると言う。

だが、それは両者の合意の結果。

それが不満なら、妻の姓で合意すべし、という啓蒙(?)運動でも
やれば良い。

あるいは、男女間の社会的・経済的な不平等があるから、
そんな結果になっているなら、その現実自体を是正しなければ
意味がない。

法律を改正して、「お上」が別姓を許してくれないとどうにも
ならないし、
それさえ実現するばOKという意識の方が、
むしろ前近代的かつ体制依存的ではないか。

別姓で子供が生まれた場合、その子の姓をどうするかのか。

夫婦で話し合って合意しなければならない。

結婚した時に合意できないで、子供が生まれたら合意できるのか。

子供が2人、3人いた場合、どうするか。

兄弟姉妹で姓が違っていいのか。

それとも制度上、「佐藤・鈴木」みたいな複姓を認めるのか。

その子が結婚して子供が生まれたら「佐藤・鈴木・山田」みたいに、
どんどん増えていくとか。

訴訟の原告やその支援者たちは、夫婦別姓を無条件に男女平等、
女性差別撤廃という文脈のみで捉えているように見える。

不思議だ。

シナ父系血統主義(男系主義)では夫婦別姓が当たり前。

それは男尊女卑の観念とセットだった。

シナ文明の影響下にあった地域も、普通に夫婦別姓。

わが国でも、夫婦別姓の時代が長い。

明治8年に庶民が名字を公称するようになっても、
政府はそれまでの慣行に従い、妻には実家の名字を使い続けさせた
(翌年の太政官の指令)。

法制史家の山中永之佑氏によれば、
世帯主たる夫の血族だけが
狭義の家族とされ、妻は「異族」
視されたからと言う。

夫婦別姓は、女性蔑視の表れであり、それ自体が女性差別
そのものだった。

当時、これへの不満が各地から出された。

妻はもはや生家・実家に埋没した存在ではなく、
独立した人格として新しい「家」
の一員、との自覚が
普及していたからだ。

かくて明治31年の旧民法では「夫婦同姓(但し夫の姓のみ)」
へと変更された。

それが昭和22年の現在の民法で、更に姓は夫婦のどちらかに
統一すればよいことになった。

だから、名字については制度上、既に男女平等になっている。

それがもし平等に機能していないなら、その原因を探り出し、
そちらこそ改善すべきだろう。

それにしても今回の訴訟の原告が、敗訴で涙を流して悔しがるほど、
実家の父親の姓(
母親は結婚前は違う姓だったはず)に拘るのは一体、
何故なのか。

それほど父親思いなのか。

それとも父親の姓ということすら忘れているのか。

なお最高裁が今回、政治的な争点になっている「選択的夫婦別姓」

是非に立ち入らなかったのは、賢明。

しばしば政治的少数派が、自らの掲げる政治的主張を通す為に、
根気強く国民を説得する手順を踏まず、民主主義の手続きを「迂回」
する形で、
裁判を利用して目的を達成しようと企てる傾向が、
見られるからだ。

司法サイドが安易にこれに乗り、裁判所による事実上の立法行為が
繰り返されるような事態になれば
、民主主義は形骸化してしまう。

にも拘らず普段、民主主義を強調する勢力が、
こうした手法を多用しているように見えるのは、どうしたことか。