時浦兼(トッキー)

恐るべきやの無尽蔵!今月の『大東亜論』感想

時浦兼(トッキー)

新刊情報
2016年 5月 6日

現在発売中・SAPIO6月号掲載
『大東亜論』の感想、
門弟MLからご紹介します!


 岡りなの質問への頭山・枝盛の答えやいかに!!。
SAPIO「大東亜論・自由民権篇---第10章--」
を読みました。
茶魔美ちゃん似の岡りなの
知的好奇心&大胆不敵は
容赦なく押し込んでいきます;;。
出ましたっ! 本気で考える恐るべき者に
出会った時の頭山の反応ギャグ、
「恐るべきやの無尽蔵!」
(人差し指を相手に向けてぴくぴく;)。
「恐れ入谷の鬼子母神」の派生でしょうか。
試しに両手でやってみたら
ぴくぴくやられた方は何やら
ゾワ?ッとするらしいです。いいカモ!。
「天は人を平等に造った」(福沢諭吉)
「『自由・平等』は天から与えられたものだ
と信じる。」(植木枝盛)
---これは当時に生きる人々にとって
全く新しい爆弾のような言葉・考え方
だったと思います。
新しいというより、無意識でも各自の中にある
「大切にされたい、満足したい・・・」という
願い(欲)の蓋を開けてしまう
魔法の言葉だと思いました。
蓋を開けたが最後、この考え方は
“我”の赴く方向へ様々な形で
広がっていくと思われます。
>福沢は「自由・平等」を本気で信じてはいない。
 職業や身分の貴賤があると思っているし、
 徒党を組むな、「分限」を守れと言う。
 (枝盛が福沢の論を評して・P63)
これより急進・枝盛は、天賦である自由平等は
すべてに及び、「天皇と俺は本当は対等じゃ」
とまで言います。
 
頭山の考えは「一君万民---天皇という
無私の存在の下で全ての国民は平等」。
これは上記の「蓋を開けたが最後、
人間は“我”の赴くいろいろな方向・形で
広がっていってしまう」という危うさを
察知しているからこその言葉ではないでしょうか。

言い替えれば民心の弱点、バランスを
とることの難しさを熟知し、
安易に信用しないのだと思います。

【無私】であり、祭祀を司る最高位、という存在は、
神代からの日本・そしてその自然への畏れを持ち、
尊重するという最たる「慎み」の現れだと思います。
これは「我」が暴れ出すのを鎮める
文字通り落ち着いた有難く貴い存在。
---「一君万民」は、優れた世の捉え方
(語弊恐れず言えば「演出」)と思います。
人の器はてんで平等ではない、
小さな杯から果てしない大海まで、
水の入る量は無限大ほども
違うと思っています。
育った環境も今置かれている状況も
能力も一様ではないです。
例えばネット内だけでも、
読解力や状況の理解力・・・
天と地ほどの開きがあるのは一目瞭然。
ネトウヨだのネトサヨだの
浅薄ジェンダーフリーだのの
オレオレ言はもうウンザリ。 
今日の木蘭師範のブログ
「へんてこジェンダー・ギャップ指数」のように、
政治家や有名人、言論を生業にしている
御人等も、上記の例外ではありません。
そして第10章の最後のコマ。
---植木枝盛著「民権自由論」を
「まあまあの出来ね。」とヒヒョー目線で見ている
岡りなの顔がとても怖いです。
というか、「---それが女の自主独立ばい!」と、
このページの彼女の顔は自信に満ちて
いることで、ある種の醜さが漂い、
危惧を感じさせます。そのコマの言葉
>だが「分限」をわきまえぬ自由民権の危うさは、
 すでにこの女の中に顕れていたのかもしれない。
にギクリとさせられます。
では「分限」とは何か、という問いが始まります。
またまた続きが楽しみー!。
そう言えば「自分」という言葉は、
英語の「I」でもなく「我」でもなく、
「自らの分(限)を心得た一人称」と思われますが、
ごく普通使っている日本語の中に
「分」が入っていることに驚きます。


明治期に先人が行ってきた思想に対して、
現在の日本人がいかに後退しているかを
つくづく思い知らされる場面が満載。
まさに考えるべきこと無尽蔵!
『大東亜論 自由民権篇』の
さらなる展開にご期待ください!