高森明勅

シナ風が古来の伝統?

高森明勅

皇室・皇統問題
2021年 2月 5日

天皇の皇位継承に伴う重要な祭儀が大嘗祭(だいじょうさい)。
その大嘗祭の大切な付属行事に「御禊(ごけい)行幸(きょうこう)」
があった。

神聖であるべき大嘗祭を行うに先立って、
天皇ご自身が京都の鴨川などに臨まれ、諸々の穢(けが)れを
除き清める行事だ。

大嘗祭が応仁の乱以降、9代の天皇、221年間に亘(わた)り中断した後、
江戸時代に再興してから現代に至る迄、この行事は途絶したままだ。
その御禊行幸を巡り、興味深いエピソードがある。

仁明(にんみょう)天皇の大嘗祭(833年)の際、御禊行幸に奉仕した
「故事」に詳しい池田朝臣春野(いけだの・あそん・はるの)が、
他の貴族達の装束(しょうぞく)を見て嗤(わら)った。

「それは“古来の伝統”の装束ではない」と。
その上で、自分が身に付けているものこそ「古来の伝統」の装束だ、
と威張った。
ところが、それはシナ唐の装束のまんまだった
(『続日本後紀〔しょくにほんこうき〕』承和〔じょうわ〕5年
〔838年〕3月8日条)。

恐らく行幸の儀式が整えられた当初は、当時の日本にとって
“先進国”だった唐を手本にしたのだろう。
奈良時代には、朝廷の貴族・役人の平素の服装自体が唐風だった。
しかし、平安時代に入ると、文化全体の「和様化」「国風化」が進む。
つまり、わが国の気候・風土、生活様式、価値観・美意識などに応じた
「日本化」が図られた。

その一環として、服装も“日本らしく”変化する。
「文化の和様化は、服装においても同様で、日本人の生活様式に
ふさわしい公家(くげ)の典雅な服装が形成されたのである」
(高田倭男氏)と。

現在、皇室や神社の祭祀などで用いられている装束は、
平安時代の“国風化”によって「形成」されたものだ。
しかし、春野は「日本人の生活様式にふさわしい…典雅な服装」を
排除し、唐風装束こそ“古来の伝統”(!)と言い張って、
頑(かたく)なに墨守(ぼくしゅ)しようとしたのだろう。
何だか、現代でも同じような光景を見かける気がするのは、
錯覚だろうか。

「もともとは国粋主義のつもりで主張していたはずなのに、
実は、皮肉にも中国文化偏愛主義になっている」(工藤隆氏)とか。

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