大須賀淳

「バランス感覚の喪失」への抗い

大須賀淳

2026年2月12日 12:24

自民党所属の参議院議員を2期、その間に厚生労働大臣も務めた舛添要一氏のXポスト。

ここでの「右翼」は、おそらく主に日本会議の事を指していると思われます。「えー!?そうだったの?」という感覚は全くなく、認識していた通りの実態が、内部にいた人物から改めて語られた形です。

 

舛添氏自身、元々テレビ等で大きな知名度があったものの、2度の国政当選は自民の比例によるものなのですが、自民が下野した後の2010年に離党するという「ドライ」な関係だった事もあって、気軽な「ぶっちゃけ発言」に至ったのでしょう。

 

「リベラルな支持者」という表現は「浮動票」的なニュアンスで使われていると思われますが、浮動票層の「移り気な普通の庶民」に対し、日本の凋落・人口半減・皇室の消滅など明確な目標を持っている統一協会や、(実は日本の国柄や本来の伝統とも遊離した)明治的価値観の原理主義団体である日本会議などからの方が、ブレない利得の供与を受けられるのは明確でしょう。

 

その状況において自民党に蔓延したものは何か。舛添氏が「右傾化」と書いているものは、正確には「保守としてのバランス感覚の喪失」だと私は感じます。

 

例えば「自虐史観への抗い」は、度を越した自国下げ、中国とのプロパガンダ戦への無自覚、ファクトが軽視された歴史の歪曲といった、20世紀末の日本を覆う「バランスの崩れ」を是正することに最大の意義がありました(その先頭をきったのが「戦争論」だった)。

 

一方で、それが(時々の状況や、幾重にもからまった史実の経緯を踏まえない)教条・スローガンと化してしまうと、それもまた(むしろ、さらに深刻な)「バランスの崩れ」となります。教条・スローガンはまだ「論理」の体裁をとっていますが、それが暴走すると「中国へのイキリ」といった極めて単純で思考停止した短絡的な行動になってしまう。

 

「保守」といは「持続性」に他ならないので、例えば「リベラル的なスローガン」である「SDGs」(このパッケージング自体には、違和感を覚える要素も多いけど)にも、本来であれば保守が内包するべき要素が多々含まれています。

 

1955年体制以来の自民党が良好なバランスを保ってきたとはとても言えませんが(だから〝勝共〟なんて言葉に騙されて、ダイレクトに日本の破壊を目論む統一協会の暗躍を許してしまった)、特に与党復帰後の10数年において、自民党はかろうじて持っていたバランス感覚も完全に崩壊。その瓦礫の中から生まれてしまったのが、高市政権というモンスターに他ならないでしょう。

 

高市自民の暴走も、「いわゆるリベラル」の瓦解も、根にあるのは「教条化による思考・思想の停止」です。

 

保守の本質である「バランス感覚」は、常に時代に対峙し、考え、行動に反映させる事でのみ成立するもの。セクショナリズム、ポジショントークから脱しないと、貼ってあるラベルに関係なく「奴隷化まっしぐら」な状況だと、皮膚がピリピリするように感じています。