高森明勅

我が敬愛する国分隆紀兄の死

高森明勅

2013年 7月 22日
出先で携帯に電話が入った。

ただならぬ気配。

既に相手は、電話口で泣いている。

「国分さんが…亡くなりました」 行きつけの飲み屋で倒れていたと。

我が敬愛する国分隆紀兄の、突然の訃報だった。

兄とは、兄が早稲田の学生だった頃に出会った。

だから、もう35年以上の縁だ。

学生時代、桜が咲き初めた春の1日、早稲田キャンパス内の、
兄が属していた国策研究会の出店
(サークルが会員勧誘のために机を引っ張り出し、
椅子も何脚か並べていた)で、
午前10時から2人で一升ビンを抱えて飲み始め、
その後、6号館地下にあった同研究会の部室に移動して飲み続け、
夜になると高田馬場の飲み屋に繰り出し、
最後は兄の下宿に乗り込んで、翌日の午後1時頃まで、
ほとんど2人きりで、延々27時間も飲み続けたことがあった。

話が尽きることも、話に飽くということもなかった。

或いは天下国家を憂いて悲憤し、
或いは清く美しかるべき乙女への憧憬を、熱を込めて語った。

我が青春の、かけがえのない珠玉のような一駒だ。

九州に居を移した兄とは、ここ暫く会うことも、手紙のやり取りも、
電話で話すこともなかった。

しかし一旦会えば、学生の頃と何の変わりもなく、
胸襟を開いて話が出来ることを、爪の先ほども疑ったことはない。

その国分兄が、忽然として逝ってしまった。

既にとうに過ぎ去りながら、
どこかで今も引き摺り続けている気でいた青春のしっぽが、
兄の死を知った瞬間、永遠に失われてしまったような悲哀を覚えた。

ああ、せめてもう一度、兄と杯を傾けたかった。

兄の涼やかな眼差しと、含羞を帯びた生真面目な語り口が、
こんなにも早く、永久に喪われてしまうとは。

私の手元には、兄の手作りの詩集2冊だけが、遺った。

『春のかぎり』(昭和54年、限定版)
と
『おほぞらの祝祭』(昭和57年、限定6部の1冊)だ。

兄が伊東静雄をこよなく愛したように、私は兄の詩が大好きだった。

世俗には知られずとも、兄は私にとって、
ほとんど今の世の唯一の詩人だった。

兄の死にあたり、兄の処女詩集
『春のかぎり』から「悲歌」を掲げ、我が追悼の思いを託す。
 

悲歌

悲しき歌を奏でた日に
音もなく花びらは流れ
人々は過ぎ去つてゆく
忘却の彼方へと

花にうもれた奥津城(おくつき)に
剣の墓標は朽ちていた

それは そのまま一群れの
哀しみに咲く花だつた

野辺に立ちて いま思ふ
悲しき命つみ重ね私らはある と
さうして ひとはふたたび…

悲しき歌を奏でた日に
青い空は鳴り渡る
征くひとの出発のやうに