高森明勅

朝日新聞の思い出(4)

高森明勅

2014年 9月 9日

その3。

かつて私が、「新しい歴史教科書をつくる会」
事務局長を務めていた頃のこと。

実に様々な出来事があった。

中でも、過激派の革労協反主流派に夜中、
事務所を放火された卑劣な事件(平成13年8月7日)は、忘れ難い。

一歩間違えば、何の関係もない地元の住民も巻き込んだ、
大惨事になるところだった。

その頃は、私の自宅周辺も毎日、警察が昼夜を問わず巡回し、
まだ幼かった子供たちの通学路も、
警察に届けて警戒して貰っていた
本人たちは今もそんなことがあったのを知らないだろうが)。

日常的なマスコミとの対応は、私が殆ど一手に引き受けていた。

ロイターやAP通信など海外からの取材もあったが、
主に文部科学省の記者クラブに所属していた記者たちが相手だ。

結構、頻繁にやり取りしていたので、
今もその時に接触のあった記者たちのことは、おぼろげに覚えている。

NHK、読売新聞、毎日新聞など、それぞれ優秀な記者たちだった。

当初、ひたすら「つくる会」バッシングに走っていたメディアが、
しばらくすると僅かでも軌道修正を見せるようなケースもあり、
彼らとの繋がりを大切にしていたのも、
あながち無駄ではないな感じたことも。

ただ事務局長時代、産経新聞の記者の印象は殆どない
(後に、
石川水穂氏の薫陶を受けた、
熱心な秀才のW記者に会ったが)。

そんな中でも、朝日新聞のY記者は最も印象に残る1人。

勿論、朝日はつくる会の「天敵」のような存在で、
あらゆる手段を使って会の活動を妨害し、攻撃を仕掛けて来ていた。

誤解のないように言っておくが、今の凋落した朝日ではない。

メディア界に王者として君臨していた朝日が、
つくる会というささやかなボランティアサークルを、
総力を挙げて潰しにかかっていたのだ。

朝日新聞と共同通信が一番、悪質というのが、
その頃の私の正直な実感。

その朝日の文科省担当チームのキャップがY記者だった。

つづく)