高森明勅

戦後憲法学の異常さ

高森明勅

2016年 10月 20日

今、校正中の幻冬舎新書で私が強調した1つは、
戦後憲法学の異常さだ。

今の憲法の大元になったマッカーサー・メモや、憲法草案の起草に
あたったGHQ民政局次長だったケーディスらの
構想と比べても、
宮澤俊義以来の憲法学の「象徴」
規定についての通説的な解釈は、
常軌を逸している。

徹底的に否定的・消極的に“ばかり”、解釈しようとして来た。

つまり、占領軍が求めた“以上”に天皇の主体性、
能動性を
否定したのだ。

何故そんな事になってしまったのか。

それ自体、戦後という特殊な時代を読み解く上で、
興味深いテーマだ。

しかし、ここで重視したいのは、マッカーサーやケーディスら
“より”自虐的な「象徴」解釈が、
いつの間にか「保守」系と見られて
いた知識人の頭脳も、
完全に支配していた事実だ。

天皇陛下のご譲位へのお気持ちが明らかになって以来の、
それら
知識人の殆ど正気とも思えないような発言の数々は、
はしなくも
その事実を暴露した。

「象徴」をひたすら消極的・否定的な概念に封じ込めようとして来た
戦後憲法学。

ところが天皇陛下はご自身でそれを突き破り、
「象徴」
こそ天皇の伝統的在り方と最も整合的であるとして、
30年近い歳月をかけて、見事に「能動的」「積極的」な天皇像を
築き上げられた。

更に、それを次の時代に“確実に”伝えようとされているのだ。

譲位制へのご希望も、動機はそこにあると拝察できる。

それに対し安倍政権は、天皇という存在をもう一度、
戦後憲法学」的な“牢獄”に封じ込めようとしているのではないか。

有識者会議は、その為のチャチな目眩ましのように見える。