高森明勅

スイス・ミューレンでの情景

高森明勅

日々の出来事
2019年 10月 12日

数学者で作家の藤原正彦氏。
奥様とご一緒に、亡き父、新田次郎ゆかりの地、
スイス・ミューレン村を訪れられた。

同村はアイガー、メンヒ、ユングフラウの3名峰に対峙する、
切り立った崖の上の狭小な地にある。
絶景なのに“隠れ家”のまま。
そこで出会ったイギリス人親子とのやり取りを記されていた。

「夕食前の散歩中、小ぢんまりとした木造教会の芝生のベンチに腰をかけ、
暮れなずむ山々を眺めている五十代半ばと思われる男性と、
母親であろうか品のよい婦人に
目が止まった。
絵のような光景だったので、思わず話しかけた。

『よくこちらに来られるのですか』
『毎年母と来ています』
『この景色ですからね』。
母親が『初めて来た50年前はアイガーもユングフラウも全山真白でしたが、
最近は温暖化のせいでしょうか、雪がすっかり後退しました』と言った。

『どれ位滞在ですか』と聞き返すと母親が『2週間(fortnight)』と言った。
『英国の方ですね』
『どうして分かりました』
『英語です』。
2人はうれしそうにうなずいた。

美しい英語やフォートナイトなどという単語は、
英国中上流階級だけのものだからである。

男性はバーミンガム近くの町の牧師だった。
『あなた方はどうしてここに』『作家だった父は55年前、憧れのアルプスを見ようと
3カ月間スイスを回りました。私達はその時の父の足跡をたどるつもりです』。
男性は『追憶の旅なのですね』と言うと何を思ったのか一瞬目をうるませ、
私達から目を離すと正面の山々を無言のまま見上げた。
しばらくして口を開いた。

『お子さんは』『碌(ろく)でなし息子達が3人います』。
男性は一笑してから急に真面目な顔となり、
『あなたの言う碌でなし息子達が、55年後にあなた方の足跡を訪ね
ここに来ることでしょうね』と言った。

話が弾み、辺りがすっかり薄暗くなったのでいとまを告げると、
彼はベンチからすっと立ち上がりこちらに歩み寄ると、
『あなた方と素晴らしいお話ができました。本当にありがとう』と言って
私達に堅い握手をした。
教会の細道を下りながら見上げると、アイガーの西壁が夕陽にほの赤く輝いていた」

―印象的な情景だ。
バーミンガム近くの町の、急に目をうるませた牧師の男性は、
ひょっとしたら彼自身の父親への「追憶」を呼び起こされたのかも知れない。

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