あいまいな価値相対主義を許容できないわし
わしは倉持氏が外国人記者クラブで日本人の「あいまい主義」を批判した時に、面白いと思った。
戦後民主主義とは、まさにこの「あいまいさ」の蔓延であり、「朝まで生テレビ」的な価値相対主義が永遠に続くことを容認している態度にこそある。
それは結局、「嫌われたくない・喧嘩が怖い」という自己欺瞞に他ならない。
一つの価値しか許さないという価値絶対主義は、戦中の軍国主義・日本にもなれば、共産主義にもなる。
戦後は学生運動の価値絶対主義の帰結がリンチ殺人を生み、その嫌悪感から、今のあまりにも従順な若者を生んでしまった。
戦後日本の知識人は価値相対主義を選び、「いろんな意見があっていいよね」という心優しい価値相対主義の中に惰眠を貪ってきた。
そこに現れたのが『ゴーマニズム宣言』であり、「公」のためなら価値絶対主義もあり得るとしたために、わしを支持する読者も現れた。
もっと丁寧に言うなら、「公」のために「価値の順列をつけよう」というのが、わしの考えである。
これが誤解されて、小林よしのりは敵味方を分けて、敵に厳しいので怖いという見方をされているのである。
だがわしは「王様は裸だ」という偽善も欺瞞も許さぬ態度をとっているだけであり、嫌われたって構わない。
わしは心優しきあいまい主義の大人ではない!
戦後民主主義=価値相対主義は、価値紊乱主義に堕すというのがわしの考えであり、この感覚が西部邁と同じだったために、数年間、共闘することができた。
「あいまいさを排する」という倉持氏の考えが本気なら、わしにとっては歓迎すべき発言である。
だが、今回はプロデューサーである高森氏が、
「憲法や皇室問題というテーマの難しさは、原則を無闇に誤魔化してはならない一方、様々な立場の違いを超えた、幅広い合意がなければ前に進まない。
そのバランスをどう見極めるか。難しいだけに、やりがいのある挑戦だ。」
と言うなら、わしはそれに従う。
黙って見ていよう。
朝まで生テレビのように、「結局何だったんだ?何が結論だ?」という爽快感のなさ、後味の悪さが残らなければ成功だろう。
わしは「ゴー宣道場」の議論を「公論」と名付けた。
「公」のためなら立場の違う者とも、24時間貫徹の覚悟で徹底的な議論をすべきであり、結論を出すべきだと思う。
幕末か明治時代なら、殺すか切腹かという覚悟で議論をしていた。それを描いたのが『大東亜論』だ。
だが、そんな迫力を持った人間はもう現れない。
わしは自分が年老いたら、もう日本は永久に変わらないと思っている。
自分を過大評価するしかないほど、他人が弱すぎる。
たかがコロナ風邪で委縮する日本人の実態を目撃した今となっては、日本人は「あいまいさ」の中に微睡みながら、米中のどちらかの属国として生きていくしかないのだと予感している。
せいぜい抗うのだ。
畜群に堕した日本人に埋もれてたまるか!