高市首相による当選議員へのカタログギフト配布、盛んに報じられていますね。
熨斗に「御祝 高市早苗」とだけ書いてある贈り物が、奈良県第二選挙区支部からの支出なので問題ないと言い張るのは、例え「合法」で通せるとしても、間違いなく「欺瞞」です。
「欺瞞」が踏みにじるのは、明文化されたルールそのものよりも、歴史・時代と社会によって醸成された「ルール感覚」の方。
高市首相は24日の国会において、憲法について「社会や国民意識の変化に応じてアップデートすべきもの」と述べています。その「言葉そのもの」は全くその通りなのですが、当然ながら重要なのは(昨日のライジングVol.566「憲法と皇室典範の何を変えるべきか?」でも論じられているように)「何を、どのように」変えて行くかの部分。
本来「アップデート」の語が使われているソフトウェアの分野では、的外れな内容のアップデートによって価値が損なわれ、ユーザー離れを招いたものがいくつも存在します。
そうした事態が起きる際は、カタログスペック的な機能の盛り込みや開発側の事情・こだわりに傾きすぎて、ソフトが実際に使われている現場の感覚やニーズに鈍感になっている場合が多い。これは、アップデートを装いながらその内実はエゴイズムだけを膨張させていた「欺瞞」の帰結です。
女性自身の記事によると、かつて衆議院の委員会で「(憲法は権力を縛るものというのに反発し)私は、そういう考えはとりません。憲法は、国家に権力を与えるものです」と述べたとも伝えられる高市首相の感覚は、こうした構図とそっくりだと感じられてなりません。
わざわざ熨斗紙に「高市早苗」と個人名を単記するエゴを発露させながら、後になってこのような非難を浴びて弁明する羽目になっているのは、「欺瞞」のしっぺ返しが熨斗をつけて返ってきている構図に他ならず、何度こういう事を繰り返すんだと滑稽にすら感じます。
ただ、こうした人物を首相に据えるという状態を放置する事で、特大の熨斗がついた不利益が返ってくる先は「日本の公」。高市の責任をいくら追求しても取り返しのつかない事態が招かれる事が本当に不安で、自身が生きてきた時期の中で最大級に政治体制への危惧を抱いています。