高森明勅

景気と幸福、亡き父の思い出(2)

高森明勅

2013年 1月 19日
知人の連帯保証人になったばかりに、
巨額の借金を背負って、
長年順調に業績を伸ばして来た自分の会社が、
倒産に追い込まれた父。

さぞ悔しかっただろう。

さぞ落胆しただろう。

お洒落で少し見栄っ張りだった父には、
屈辱的でもあったに違いない。

何より、抱えた借金の膨大さに暗憺たる気持ちだったはずだ。

しかも当時、3人兄弟の長男の私が東京の大学に入学して、
間がなかった。

弟たちも地元の高校生。

お金がいくらあっても足りない頃だ。

今振り返ると、よく大学を中退しなくて済んだものだと思う。

しかし当時は、驚くほど暢気だった。

夏休みなどに帰省しても、父は自分の辛さ、
苦しさを子供たちには、爪の先ほども見せなかった。

相変わらずユーモアたっぷりで明るく、
話題の大半は天下国家のことばかり。

アルバイトをして家計を助けろ、
なんてことはまるで言わない。

学生のうちは、学生じゃなければ出来ないことを、
悔いの残らぬように、やり過ぎるくらいやっておけ、
と繰り返し言っていた(但し、勝手にアルバイトは色々やった)。

私のお気楽な半生の中でも、
取り分けお気楽だった学生時代と、
父の生涯で最も辛く厳しかった、
無職で借金の山を抱えていた時代は、ほぼ重なる。

にもかかわらず当時、私が接した父は、
私に劣らぬほどお気楽そうに見えた。

家族皆にはいつも優しく、
困った人が相談に来れば親身になって相談に乗り、
皇室と国家の行く末だけを案じ、
公のことではいつも憂憤を抱いていた。

学生の私から見て変化に気づいたのは、
自家用車のランクが下がったことと、
母がパートに出始めたこと、
それから父が平日、普通に家にいるようになったことくらいだ。

「くらいだ」って、大変化じゃないかと思う人も当然、
いるだろう。

しかし、私はそれを変化らしい変化とも気づかなかった。

何故なら、家庭内の楽しげな、
明るい雰囲気は全く変化していなかったからだ。

自宅まで抵当に入れられ、
競売にかけられていたことを知ったのは、
ずっと後、父が事業を再開し、
自宅を自分で買い落としてからのことだ。

父はその頃、平日の昼間、競売にかけられていた自宅の、
書斎を兼ねた応接室で、
革張りのソファーに仰向けに寝っ転がって、
悠然といかにも幸福そうに、好きな本を読んでいた。

少なくとも私には、そのようにしか見えなかった。

(続く)