切通理作

「君と僕」の前提

切通理作

2016年 4月 13日

堀辺さんが

<「愛国心」は教えられないが、

「国家」とはなんぞやということを子どもの時から学んでいれば、

おのずとそれは生まれる>

と発言した第一回目の道場で、

小林さんは、しかし愛国心は学校現場で

教えた方が良いとわしは思っていると発言しています。

 

もし仮に、救急車を呼べばすぐ来るとか、

郵便が一律料金で全国に届くといった

近代的な利便性が得られるという単なる損得感情で

「国家」を捉えるような教師に教えられた場合、

たとえば国旗に対する敬意がある程度習慣として

身につくことなどもないのではないか?

 

堀辺さんの言う「君と僕」・・・・

相手を「君主」のように敬い、自分を「僕」(しもべ)

のようにへりくだるという日本人同士の礼節は、

君主への忠誠が前提としてある「平等」であり、

価値相対主義的でフラットな「平等」とは異なるものです。

 

そのことを重んじる態度は、

近代国家としての日本の自立のため国民が

政府を監視すべしという態度の一方、

手放さず持っているべきものなのではないか。

 

奇しくも、今月号(5月号)のSAPIOに掲載の

『大東亜論』では、

「政府と人民とは『契約』を守るか否かの関係であり、

決して主人とその子のような関係ではない!」

とする植木枝盛の演説に感銘を受けた18歳の少女・岡りなが、

しかし植木が政府と君主を一緒にしていることには

疑問を持ち、彼にこうぶつけます。

「植木先生は

天子さまと人民を対等とお考えですか?」

 

この問いかけの答えは次回に持ち越されますが、

まさに、ゴー宣道場の第一回から一貫した

テーマがここでも語られているのに驚かされます。