高森明勅

多様性

高森明勅

2017年 10月 5日

ゴー宣道場は「パルタイ」ではない。

だから、師範の意見や考え方にも幅があるし、あって当然。

例えば、憲法についてなら、
教条主義的な護憲論者は論外としても、
良質な護憲論者なら師範の中にいても可笑しくないだろう。

皇統の問題でも、さすがに男系「絶対」
論者までは
許容できないものの、「優先」論者辺りなら、
共に生産的な討論を行う事は可能だろう。

道場の多様性という事では、記念すべき第1回道場
平成22年4月11日)での質疑応答の場面を思い出す。

参加者からこんな趣旨の質問が出た。

「祝日には、自分の2人の子供の家庭教育の為にも、
国旗を掲げたいのだが、
父親が反対している。
どうしたら良いか」
と。

これに対して、小林よしのり氏は
「子供が2人いるなら、
もうむりやり掲げちゃうという手もある」。

宮城能彦氏は
もう諦めちゃったほうがいい。
そのエネルギーは別に使って、
家庭円満第一で行ったほうがいい」。

不肖私は
まずあなた自身が日の丸を掲げることの大切さを腹の底から
得心さ
れ、さらに二児の父として、社会的にも立派だという状態を
お示しになってからであれば、
お父様も耳を傾けてくれるのでは」。

みんなバラバラ。

そこから質問者が自分自身でどう考えるか。

師範同士も、自分とは異なる意見からどう学ぶか。

それが道場。

どうすべきか」
「こうしなさい」
「はい」
という場ではないはずだ。

自分で考え、
自分で納得した事でなければ、
自分の身にはつかない。

だから、師範も様々なタイプがいる方がむしろ望ましい。

排除や選別の論理、内ゲバの論理などに陥るべきではない。

道場が、「保守」の劣化や世間の付和雷同性に抗う
“砦”
である為には、何が大切か。

寛容さ、異なる考え方と切磋琢磨しつつ
アウフヘーベンを目指す知的な誠実
さ。

それらこそ求められると、改めて肝に銘じたい。

その場合、
師範の間に最低限の信頼と尊敬が共有されている事が、
欠かせない。

それが前提だ。

互いに相手への最低限の信頼と尊敬すら欠くようでは、
共に「
公論」を担うべく、前向きで建設的な議論を忌憚なく
闘わせるのが、困難になる。

その事も自戒したい。