小林よしのり

説明責任の美名に隠れてリンチが行われる

小林よしのり

政治・経済
2017年 9月 19日


あえて豊田真由子議員について書くが、豊田氏が記者会見して、

「生きているのが恥ずかしい。死んだ方がマシではないかと

思ったこともありました」と語ったらしい。

記者会見は見てない。ネットの記事で知った。

 

そもそもわしは豊田氏の罵声の音声はもう飽きたし、

元秘書とのパワハラ疑惑に関しては、当事者間の決着しか

ないだろうと突き放して見ている。

豊田氏が議員を続けたければ、選挙で国民に判断してもら

えばいいだけのことで、文芸春秋に手記を書いても、記者会見

しても意味はない。

 

人々は「記者会見しろ」とか「説明責任を果たせ」とか言うが、

その本心は「もっとリンチがしたい」というだけのものである。

「大衆の前で恥をかかせたい」「死ぬまで石を投げたい」と

思っているのだから、「説明責任」なんかまったく意味がない。

 

舛添前都知事のときもそうだったが、批判される行動があった

にせよ、その追及の仕方には「程度」がある。「加減」がある。

その「程度」や「加減」は、批判される人物の人間性や、能力

や状況によって違うはずなのだが、大衆というものはそのような

「分別」をつける力を持たない。

「マス=一塊」で火がついて、ごうごうと燃え盛るから、「加減」

が分からない。

ギロチンにかけるか、自殺するか、破滅するまで、叩きたい

という熱情だけが突っ走るのである。

 

わしは、パワハラは犯罪に近いと思っているが、豊田氏くらいの

パワハラをやっている議員は他にもいるだろう。

現在の社会は、パワハラ、セクハラが、そこら中に横行している

はずだ。

パワハラ・セクハラを許してはならないという空気は作っていく

必要はあるが、豊田氏個人に対する糾弾は、そのような啓蒙の

域を超えていて、単なるリンチである。

 

豊田氏が自殺したら大衆は一時期、居心地が悪くなるだろうが、

すぐ忘れて次の獲物を探す。

そのくらい大衆というものは手がつけられない。

 

民主主義を正しく機能させるために、「説明責任」は必要な

場面があるが、必ずしも絶対条件ではない。

だが、大衆にとっては、もはや「民主主義=説明責任」と

いう短絡的思考に嵌り込んでしまっていて、「リンチへの

欲望のための説明責任」を唱えていることが多い。

民主主義は病いを抱え込んでいる。

民主主義という病い