高森明勅

帝国憲法と「主権」

高森明勅

2018年 3月 13日

帝国憲法では(現憲法の国民主権に対し)「天皇主権」だった、
との説明をよく見かける。

だが、帝国憲法下では「天皇機関説」が通説で、
実際の運用もそれに立脚していた。

そうであれば「天皇主権」であったはずがない。

例えば、次のような指摘がある。

「帝国憲法の下では誰が主権者であったのか。
現在では、
憲法学者、政治学者でさえ、帝国憲法の主権者は
天皇であったと説き、
民主主義に反するものだと主張する者が多いが、
果たしてそうであろうか。

かつて(帝国憲法下で)日本の憲法学者は二派にわかれて
論争したのであるが、
一方を主体説といい他方を機関説と呼んだ。
前者は、
天皇は主権者であると主張する一派であって、穂積八束
ほづみやつか)、上杉慎吉(うえすぎしんきち)、松本重敏、
沢田五郎等、少数の学者の支持するところであって、大多数の
進歩的学者は、天皇は主権者ではない、主権者は『国』
であって、
天皇は主権者たる国の最高機関である、
と主張したのである。

…(天皇を主権の主体とする)学説は、明治末年、美濃部(達吉)、
上杉(慎吉)
両博士を中心とする一大論争の結果、学理的に敗れ、
わずかに余喘(よぜん=死ぬ間際の今にも絶えそうな息)を保ったに
過ぎぬ。

それが満州事変以後のファシズム台頭の時流に乗って、
昭和10年に(天皇)機関説事件を起こし、ほとんど暴力と
大差なき権力によって機関説が国禁の邪説とされ、
爾来(じらい)、
天皇主権説が大手を振って通ることになったが、
それは、あくまで
政治と御用学説の支配であって、断じて、
帝国憲法そのものが天皇主権
であったことではない。…
これは法理である」
(里見岸雄『天皇とは何か』)と。

天皇機関説が表面上は政治的に排除されたように
見えていた時期で
も、実務での対処は同説によって行われていた。

だから終戦時、ポツダム宣言の受諾を昭和天皇の「聖断」に頼った
異例・
非常の場面でさえ、御前会議の後に“改めて”正式な閣議が
開かれている。

「天皇主権」なら説明がつかない手順だろう。