泉美木蘭

にせものには、にせものを見抜けない

泉美木蘭

2016年 6月 14日

先日見た、佐村河内守とその妻に密着した映画『FAKE』、
最高だったんだけど、もしも次回作や類似作ができるとすれば、
題材は、ベッキーか、舛添要一がいいのかもしれないな。

『FAKE』には、「バッシングの標的になった少数派の目線を描く」
というテーマがある。
佐村河内守が《聾唖の天才作曲家》として取り上げられていた頃は、
決してメディアが使わなかったような、ものすごく
間抜けな人間の部分
がそのまま撮られているから、
観ているうちに、佐村河内守夫妻の言動に愛着が湧いてきて、
なんでもない生活の1ページにめちゃ笑ってしまう。
そして、彼と入れ替わりに大人気となっていったゴーストライターの
新垣隆氏を祭り上げた、ブームの「滑稽さ」が際立って見えるように
なっていて、これがまた笑える。
メディアが、いかにおもしろおかしく、人を、視聴者を、躍らせるもの
なのかがよくわかるとともに、大衆が、どれだけ簡単に、波に乗って
いくものなのかという怖さもわかる。
私は現代音楽に疎いので、佐村河内守については、週刊文春で
事件が報じられるまで知らなかったんだけど、
あのキャラクターの濃さの凄さもあるけど、
そもそも彼の名前とビジュアルで発表された多くの楽曲を、
最高だ、聾唖なのに天才だと讃美した大衆が大勢いたわけだよね?
それが、一斉に翻って、「騙された!」「うそつき!」として、
ケチをつけて叩きはじめた。「CD返品する!」とかね。
「佐村河内は耳が聞こえるのか?」ということよりも、
その大衆の現象そのものが「佐村河内事件」だったんだと思う。

ベッキー事件も進行中の舛添事件も似ている。
舛添バッシングは、もう都政批判でなく、単なるブームだよね。