高森明勅

皇室の人権を否定する「飛び地」説で制度を維持することは至難

高森明勅

皇室・皇統問題
2021年 11月 8日

現在、憲法学界で重要な位置を占める長谷部恭男氏。
同氏は天皇・皇室を巡る制度について、次のように整理されている
(『憲法 第5版』)。

《憲法学上の「飛び地」説》

「日本国憲法の作りだした政治体制は、平等な個人の創出を貫徹せず、
世襲の天皇制(憲法2条)という身分制の『飛び地』を残した。
残したことの是非はととかく、現に憲法がそのような決断を下した以上、
『飛び地』の中の天皇に人類普遍の人権が認められず、
その身分に即した特権と義務のみがあるのも、当然のことである。

したがって、天皇は(そして皇族も)憲法第3章にいう
権利の享有主体性は認められない」と。
この説では、皇室の方々には「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない…」
(憲法第18条)、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」
(同第19条)などの人権保障すら、適用されないことになってしまう。

《エスプリ・ドゥ・コールの大切さ》

しかし、同氏は一方で、次のような指摘もされている
(「奥平康弘『「万世一系」の研究』〈上〉解説」)。

「天皇制および皇室制度を持続的に支えようとする皇族に共有される精神、
つまりエスプリ・ドゥ・コールが失われれば…現在の姿の天皇制および
皇室制度を維持することはおぼつかない。
…天皇が自発的に公務を放棄したら、摂政とされた皇族も
次々に公務を放棄したら、また皇族が世間から当然に期待されている
行動や態度を示すことをやめたら、どうなるであろうか。
…天皇制の存続に危機感をおぼえる人々は…エスプリ・ドゥ・コールが
失われるリスクに…いかに対処すべきかこそを考えるべきことになるであろう」と。

《「飛び地」説と「エスプリ・ドゥ・コール」論の矛盾》

ここで問題になるのは、天皇・皇室を巡る制度を
人権規定が全く適用されない「飛び地」と見る立場を前提とした場合、
果たして皇室の方々の「エスプリ・ドゥ・コール」が
失われないまま維持できるのか、という点だ。

天皇・上皇・皇族には「特権と義務のみがある」一方、
「人類普遍の人権が(一切)認められ」ないという処遇が
貫徹される条件下で、天皇・皇室を巡る制度を「持続的に支えようとする…精神」
が皇室の方々に「共有され」続けることは可能なのか。
端的に言って至難だろう。
つまり、長谷部氏の発言(「飛び地」説と「エスプリ・ドゥ・コール」論)は、
天皇・皇室を巡る制度を敢えて廃絶させようという意図に基づくのでなければ、
矛盾を抱えていると言わざるを得ない。

《必要最小限の人権制約》

天皇・皇室を巡る制度がその本来の趣旨に則って、
その存在意義を遺憾なく発揮する為には、皇室を現実に
担っておられる方々の責任感、使命感、モチベーション、やり甲斐などが、
すこぶる重要な意味を持つ。

「エスプリ・ドゥ・コール」論は、その事実への注意を喚起する上で、
大切な問題提起だ。
その「エスプリ・ドゥ・コール」論を重視するならば、
皇室の方々への人権無視、人格否定に繋がりかねない「飛び地」説ではなく、
元最高裁判事で皇室法研究の第一人者である園部逸夫氏の次のような
指摘こそ妥当と見るべきだろう(『皇室法入門』)。

「人権との関係における皇室の方々に対する特例
(具体的には“制約”―高森)は、天皇の象徴という地位、
あるいは世襲による地位を維持するためのものであって、
そうした特例は特例を設ける趣旨目的との関係で
必要最小限とすべきと私は考えている」と
(同氏『皇室法概論』第4章第3節も参照)。

皇室の方々への人権制約は、あくまでも
「趣旨目的との関係で“必要最小限”」であるべきだ。

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