「保守」の流行、「伝統」の原理主義化、「リベラル」の退廃
権力を握るためには「保守」でなければならないと考える政治家が圧倒的に増えた。
石破茂から野田佳彦から、その中間勢力まで。
「保守」という言葉に対するコンプレックスは、昔に比べて相当に肥大化している。
「保守」でなければ、一般庶民の生活感に浸透しないと思われ、「保守」はほとんど「保身」と同異議に捉えてしまわれるようになった。
「保守」と「保身」の違い、これをうまく説明できる者はいないだろう。
そこに「伝統」という言葉を放り込めば、これはもう金縛りにあったように従順に平伏してしまう。
誰も「伝統」とは何かを説明できないのだけれど、「伝統」を知らない保守なんて、保守とは言えないと信じられてはいる。
「男系男子こそが伝統」という神話は、こうして「自称保守」の間に浸透し、神話化され、原理主義となってしまった。
高市早苗に代表されるまでネトウヨ化した者たちは、もう自分を相対化できない人々である。
脳の新陳代謝が終わっているのだ。
ほとんど懐古趣味の人となるから、その懐古は昭和の高度経済成長の時代こそが日本と思い込んだり、その源流が明治の近代化に端を発することにも気づかない。
一方、「リベラル」という観念は、知識人の間でいまだに根強いが、その実、馬鹿にされている。
実際、一般庶民と遊離した「理想」「人類の理想形」を想定しているのが「リベラル」で、ある意味子供っぽい、ある意味偽善的という偏見がすでにこびりついてしまった。
それを「左翼」と感じる者は多く、「リベラル左翼」という「偽善」に、積極的にそっぽを向く者たちは、そうして「薄っぺらいホシュ」や「ネトウヨ」に傾倒していくのが最近の状況だ。
それが政界という場所には、凝縮して現れるようになってしまった。
これをなんとか俯瞰して、右から左にまで明快に示す作品を創らなければならない。
『愛子天皇論3』でそれをやるために、全ての他の仕事を停止する日々が必要だ。せめて一週間でも。
それが今のわしに出来るか?