印象操作と批判は違う
わしは自分が聖人君子と思われないように「印象操作」をしている。
特に小林よしのりは女に弱くて、浮気っぽくて、モテモテで、ハニートラップにはすぐ引っ掛かる男だと、読者を「印象操作」している。
本当はそうでもなくて、もう年だし、こんなに仕事に熱中していたら、女にうつつをぬかしている暇もないのだが、「印象操作」はうまくいっているようだ。
わしが自分自身を「印象操作」するときは、自分を立派な人間だと思うなというメッセージがある。
これをやっていないと、本当のわしの人格があまりに高潔すぎて、聖人君子だと思われるからだ。
「印象操作」にしくじると、救世主だと思われる可能性もある。
そうなったら大きな責任が発生し、自由を奪われるので困る。
だから左翼から『戦争論』を描いた右翼と恐れられ、「ネトウヨの生みの親」と叩かれ、そのネトウヨからは「左翼化した」と罵詈雑言を浴びせられても、「印象操作」をするなとは言わない。
わしについての他人の「印象」は、そもそも「操作」できないのではないか?
だから、わしが「女に弱いというのは聖人君子と見られたくないがゆえの苦肉の策」と読者に説明しても、それが「印象操作」だと思われるかもしれない。
「本当は単なる女好きのくせに」「本当はすぐ女に騙されるくせに」「本当は今でもモテるくせに」と、見破られるかもしれない。
自分が自分のイメージを「印象操作」したり、他人から思ってもいない方向に「印象操作」されたりということはあるだろう。
だが、「印象操作」と「批判」は違う。
自分に対する間違った「批判」や「誤解」は、公の場で堂々と正せばいいのである。
証人喚問は、嘘をつけば罰せられるから、「批判」や「誤解」を正す最高の舞台である。
安倍首相は「批判」を「印象操作」と言い換えて逃げているが、「批判」が不当なら、証人喚問を受けて、説明すればいい。
昭恵夫人も最近、報道が自分のことを「印象操作」していると講演で言っていたという。
ならば証人喚問を受けて、批判が不当だと証明すればいい。
上手くいけば自分に対する他人の視線を「印象操作」することだって出来るかもしれない。
実に簡単なことではないか。
それを逃げるということは、安倍首相がお友達のために「指示」を出して行政を歪めたということであり、人質として昭恵夫人を森友・加計学園の名誉職に就けていたということだ。