「『どとーの愛』愛は“どとー”が正しい!」(byよしりん企画・トッキー)
『どとーの愛』は「スーパージャンプ」1992年4号から18号まで全15回連載、単行本全1巻が刊行され、さらに徳間書店で文庫化されました。
連載開始とほぼ同時に『ゴーマニズム宣言』が「週刊SSPA!」でスタートしており、その第2章「どぐされ恋愛論」で、本作の執筆動機が語られています。
当時はまだバブル期、「トレンディドラマ」が全盛で、オシャレな恋愛が謳歌されており、「恋愛論」の本が続々出版され、ベストセラーになっていました。「隔世の感」とはまさにこのこと、若い人にはもはや想像もしにくいかもしれませんが、そんな時代があったのです。
そんな時代の中で、よしりん先生は言いました。
「そもそも恋愛ってのは科学的に医学的に大脳生理学的に言ったら何なのかわかるか? それは幻覚なのだ」
「女が恋してのぼせてハッピーになってんのと……
おやじが酒のんでよっぱらってウッピーになってんのと…
全く同じなのである!!」
「まあ、よーするに恋愛とは勝手に思い込んで暴走してるだけの大ばか状態なだけなのだ
わしも思い込みの強い馬鹿野郎だから今まで5回もこの大ばか状態を経験している!
そのたび この女しかないと入れこんで周囲に迷惑かけ みっともない姿さらしまくってきた……もううんざりだ!」
「さわやかな恋愛とか ほのぼのした恋愛とか ましてや結婚を前提にしたまじめな恋愛とか…… そんなもんはありえないのである!!」
「真の恋愛は『どとー』でなければならない!! 障害があればあるほど恋愛は燃える! ますます周りが見えなくなって目の前の障害にだけ心をうばわれ、乗り越えるまで覚醒しない……」
「障害を乗り越えたらすぐ積極的に次の障害を作ってトリップ状態を維持しつづけていく それがどとーの恋愛なのである!!」
バブルが崩壊し、「トレンディドラマ」が死語となり、恋愛論をお金出して読もうなんて人がいなくなっても、この「恋愛信仰」「恋愛至上主義」だけは今も脈々と続いており、恋愛をしてこそ人は幸せになるかのような言説が当たり前のように蔓延しています。
そんな今だからこそ、『どとーの愛』は見直されるべき作品なのです。
…なんて解説してると、何だか文芸作品みたいな気がしてきちゃうので最初に断っておきますけど、この作品、そーとーにクレイジーです。
いくら恋愛の「狂気」がテーマとはいえ、この狂いっぷりは凄まじい。
よしりん先生の「最狂作品群」を選ぶとしたら、『青年ジェット』などと共に確実に入る作品ですので、読まれる方はお気をつけて。
愛はどとーでなければならない!
トレンディーな愛とか軽いラブコメとか すべて腐れた愛である
愛はどとーが正しい!!
本作は、この宣言から始まります。
意表を突いた展開が次々と押し寄せるドラマを「ジェットコースタードラマ」と呼んだりしますが、「ジェットコースター」なんて、そんなに大したもんでしょうか? だって、どんなに激しく動こうが、所詮はレールの上を走ってるんでしょ? しかも最後は必ず元の場所に戻ってきて止まるんでしょ?
それに比べて『どとーの愛』はスゴイ。「意表を突く」なんて言葉じゃ追いつかない、とんでもない展開が次から次! どこへ走っていくのかわかりません! 止まる時が来るのかどうかもわかりません!
その昔、プロレスアナウンサー時代の古舘伊知郎氏がパワーファイターのレスラー、スタン・ハンセンを「ブレーキの壊れたダンプカー」と形容しましたが、その表現に倣えばこの作品は「ブレーキをつけてない高速戦車」です!
常識的な感覚など踏み潰し、跳ね飛ばし、暴走に次ぐ暴走!
物語は、ある夏の日、箱根の山中にて幕を開けます。
ここで出会い、友達になった3人の子供。
父親の死で貧乏のどん底にいた地元の娘、愛舞美衣(あいまい・みい)。
山ごもりの修行に来ていた空手家の息子、怒頭(どとう)真悟。
そして、別荘にやってきていた大財閥の御曹司、千堂純一。
美衣は2日も何も食べておらず、真悟と二人で純一の別荘に忍び寄ります。
別荘の庭先に繋がれている、純一のペットのブタ、ポピイ。
美衣はよだれを垂らしながら真悟に言います。
「見なさいよ まるまる太って… おいしそーだこと…
さあ真悟 あんたの空手であのブタをしとめるのよ!」
「友だちのペットを食べるなんて」と真悟が躊躇すると、美衣が言います。
「あんた あたいを愛してるって言ったじゃない!」「あんたもしょせん並みの男ね…… 口先だけで愛を語る…」
そうなじられた真悟は、「わかったよ!」と空手でポピイを気絶させ、運び去ろうとしますが、途中の川沿いで、釣りをしていた純一とばったり出くわします。
「なんてことをするんだーーっ! ポピイはぼくの家族なんだぞーーっ!」
必死でポピイを守る純一に真悟は「た…食べさせるんだ…」と言います。
純一が視線を感じ、はっと振り向くと、そこには腹を鳴らし、よだれを垂らしてポピイを見つめる美衣の姿!
「た…食べたいの?」と問う純一に、無言でこっくりとうなずく美衣。
思いを振りきり、涙ながらに叫ぶ純一。
「わ…わかったよ…… 美衣ちゃんのためなら…
ポピイを食べて!!」
その時、ポピイが目を覚まし、血相を変えて川の中を逃げていきます。我を忘れてそれを追いかける美衣。そして、その行く先には大きな滝が……!
登場人物は全員大真面目、そして設定されているシチュエーションは、愛が試される究極の選択……なのは間違いないのだけれど……、ね? 何かが狂ってるでしょ?
でも、これはまだまだ序の口、ほんのプロローグに過ぎません。
箱根で出会った三人の子供は、夏の終わり、別れ別れとなります。
愛舞美衣は母親と共に夜逃げ。
怒頭真悟は空手修行を終えて山を降りる。
千堂純一は父親の仕事でロンドンへ。
それから8年後。
美衣は霊感を身につけ、母親と新興宗教を始めるものの、ろくに信者も集まらず、易者のバイトで食いつなぐ日々。ずっと貧乏のどん底のままで、常にダサイ古着を着ています。
真悟は両親を亡くし、妹の妬美(ねたみ)と二人暮らし。やはり貧乏暮らしの空手家で、休学中の大学生。
そして純一は、大財閥の御曹司として何不自由なく成長し、大学生ながら都内でディスコのオーナーも務めていますが、たったひとつ、身体に重大な問題を抱えていました。
貧乏に耐えかねた美衣は「玉の輿に乗りたい!」と霊感で純一のディスコを察知して押しかけるものの、頭のイカレた女と思われ、「黒服」たちに事務室に連れ込まれ、犯されそうになります。
そこへ偶然の事情から現われた真悟が、美衣と運命の再開! 空手で黒服たちをコテンパンに倒しますが、暴漢として逮捕され、連行されてしまいます
するとそこに入れ替わるように現われた純一が、美衣と運命の再開! しかし、純一には既にフィアンセの優有亜夕(ゆうゆ・あゆ)がいたのです!
真悟が店に現われ、逮捕されたことを知った純一は、警察署へ面会に出向きます。身元を引き受けに来たのかと思ったらそうではなく、真悟への恨みをぶつけに来たのでした。
純一が抱えた身体の問題、それは8年前の夏の日、真悟から喰らった延髄斬り(後頭部への蹴り)の後遺症で、「バカ」になってしまったということでした!
運命の再開は、三人の間に埋めがたい亀裂を生んでいました。そして、ここにどとーの愛憎劇が繰り広げられるのです!!
ヒロインの愛舞美衣は、名前のとおりのミーイズムで、徹底的に自己中な性格をしており、男どもがそれに翻弄されていきます。
しかしどーしてよしりん先生って、こんなに自己中の女を生き生きと、楽しそうに描けるのでしょう? 美衣の自己中ぶりは痛快なほどで、純一と再開するなり言うことが
「おしみなく愛は奪う! あなたの大切なモノを奪いたい! すべて私のモノにしたい! 好きだからそうしたい!」
「ちょっと屈折してるかな? 不幸に慣れすぎちゃって『あなた自身がほしい』と素直に言えないのよね…」
「だからあなたの大切なモノがほしい! 玉のこしにのりたい!!」
これに対して純一が「ぼくにはすでに亜夕がいる!」と断ると、それに対して言い返す言葉がまたものすごい。
「へんよ……あたしの言うなりにならない純一なんて……へん!
私はあなたの愛を信じてるわっ!」
純一は結局未練断ちがたく、美衣を真悟と奪い合う三角関係が発生。
そして一方では、純一を争って美衣と亜夕との三角関係も生じ、さらには真悟の妹・妬美までが容姿のハンデをものともせず、奸計をもって純一を我がものにしようと企み始めます。
実に難しい人間関係の渦中に置かれてしまう純一ですが、何しろこの男は「バカ」です。難しいことは一切考えられません。ちょっとでも頭を使おうとするとたちまち拒否反応が出て「ちんぷんかんぷん ちんぷんかんぷん オーイエー♪」と踊り出してしまいます。
美男で、カッコつけているけれどもバカ。育ちの良さからか、何の屈託もなく自分がバカであることを認め、一切隠しもしないけれども、カッコだけはつける。この可笑しさがなんとも絶妙です。
そして真悟。一途に純愛を信じる男。もしかしたら、一番厄介なのはこの男だったのかもしれません。
真悟の部屋の壁は、往年の吉永小百合主演作品などの「純愛映画」のポスターが埋め尽くしていました。汚れのない、純真な愛に心底から憧れていたのです。
とはいうものの、まだ20歳前の血気盛んな童貞男のこと。押入れを開ければエロ本やAVが雪崩れてきます。そして、純愛の相手と思っている美衣にまで淫らな妄想をしてしまった自分にものすごい嫌悪感を持ち、「下心ぬき 肉欲ぬきの純粋なる愛」をもって美衣を守ろうと誓うのでした。
そんな思いが伝わって、真悟と美衣は一応、恋人同士となります。そして美衣はキスをせがむのですが、それに対して真悟は「真のキス」をしたいと言い出します。
「世間じゃ男と女がほんの知りあった程度ですぐキス!
ディスコでおどってりゃ他人とでもムードだけで即・キス!
コンパで酒に酔ったらもうだれかれかまわずキス! キス!
オレはそんな軽いキスはいやだっ!
オレの純愛ではキスひとつもおろそかにはしたくないっ!!
真のキスをしたいんだ!」
吉永小百合の純愛映画などでは、恋人同士がキスをできるかで話が延々引っ張られ、キスが最大のクライマックスだったと、よしりん先生はよく話に出すのですが、この漫画でも、真悟と美衣の「真のキス」を純一と妬美が悪だくみで妨害し続け(ただし純一はバカで悪だくみも思いつかないので、策略を練るのは妬美の役目)、いつまで経ってもキスができません。その試練を乗り越え、二人は「真のキス」をできるのでしょうか?
…などと書いて、この漫画も吉永小百合の純愛映画みたいな物語なのかと錯覚する人がいたらいけないので(いないか?)、言っておきますが、この漫画はそんなもんではありません!
とにかく訪れる試練も、それを受けた展開も、すべてがクレイジーです!
何しろ、純愛を誓い合った者として、お互いに純潔を捧げ合うはずだったにもかかわらず、成り行きで、二人とも別の人と初体験をしてしまいます。特に真悟の初体験は凄まじいの一語!
そして一方の美衣は、あくまでも真悟との「真のキス」こそが重要と考えていて、
「SEXなんて SEXなんて……キスにくらべりゃ『股ぐらのあくしゅ』みたいなもんよ~~~っ」
と言い放つのです!
真悟と美衣の「真のキス」を阻む試練の数々。今回はそれを紹介していこうと思いましたが……やめときます!
こればっかりは、ネタバラシをしたらもったいない。読んだことのない人には、どっからこんな発想が出て来るんだ? と思うしかない奇想天外な展開に、ぜひとも驚き、笑ってもらいたいと思います。
それにしても冷静に見れば、真悟が「真のキスをしたい」などと余計なことを言い出さなければ、こんなバカな試練の目白押しに会うことなどなく、すんなり美衣と結ばれたんじゃないの? と思ってしまいますが、もちろんそんなこと言ったって一切意味がありません。
なぜなら、愛は「どとー」だから。
冷静な判断ができない状態こそが、恋愛だから。
障害があればあるほど燃え上がり、燃え上がるためには、わざわざ自分で必要もない障害まで作ってしまうのが、恋愛に狂っている状態というものだから。
『どとーの愛』のクライマックス、誰も想像し得なかったであろう「真のキス」を遂げた真悟と美衣の姿に続けて、こんなナレーションが入ります。
「愛はどとーでなければならない!
一夜限りの愛 ユーミンな愛 サイモン・フーミンな愛
トレンディーな愛 ラヴ・コメディな愛
すべて腐った愛である
愛はどとーが正しい!!」
作品のクライマックスのナレーションで、それまで風刺してきたテーマを強烈に訴えることは、よしりん漫画には時々見られるのですが、ここまで相手をストレートに名指しして批判するのは珍しい。
この作品の執筆動機について、よしりん先生自身が徳間コミック文庫版のあとがきで、具体的に語っています。
これを描いた当時はバブル期で「恋愛本」の大ブームになっており、どんなことが書いてあるのかと目を通したところ…
「そしたら内容がヒドイのなんの。これじゃ”恋愛論”じゃなくて、まるで”亭主捕獲論”じゃないか~!!と思ったわけ。まず初めに結婚という前提がある上で、条件が良くて無難な男をどう探すか、どんな男が平安で安定した生活に導いてくれるかってことが延々と書いてある。『あなたの身の回りをもう一度じっくりと見まわしてごらんなさい、いつもは気に掛けることもなかったけど、イイなと思える人がいるハズです』。こんなのは『身近でお堅いが一番、変な夢を追っかけなさんな、妥協しなさい、現実的になりなさい』と言ってるのと同じでしょ。これのどこが一体恋愛なわけ? 相手を徹底的に好きだと思い込み、ドーパミンドパドパ出しまくって、なりふり構わず相手にぶつかってくってのが真の恋愛でしょ」
確かにこの頃、女が合コンに男を物色しに行く歌が大ヒットしてて、まずは男の年齢、住所、趣味と職業をチェックしなきゃ、合格ラインの男が現われたぞ、それで、この日初対面の男から「帰りは送らせて」と言われて早速OK、一年経ったらハネムーンだ!……なんて歌詞が何の疑いもなく「恋愛ソング」として通用してて、私なんぞこの歌が聞こえるたびに、何がロマンスの神様ありがとうオーイエーだ、バカヤロー!! とムカムカきていたもんです。でもこれが170万枚も売れた時代があったのですよ。
さすがにバブルを知らない今どきの女性はこれを「ロマンス」と言い張るほど厚顔ではないと思いますが、それでも「恋愛至上主義」「恋愛信仰」の感覚は、今も根強く残っています。
どこかに軽くて甘い愛が存在し、恋愛をしてこそ人は幸せになれる……そんな幻想がはびこるのは、実は危険だとさえいえます。
恋愛すれば幸せが待っているなんて保障は何処にもありません。むしろ、恋愛によって人生が狂うこともあれば、最悪の場合、人生が断たれることだって世のなか日常的に起こっていることぐらい、ちょっとニュースを見ていればすぐわかる話です。
世に蔓延する「恋愛至上主義」の空気の圧力に、恋愛していない人が引け目や焦りを感じて、無理に恋愛しようとして、変な異性と巡り合ってしまって、人生をぶち壊されてしまうようなことがもし起きていたとしたら、こんなに罪作りなことはありません。
そもそも、「恋愛」をしなければ結婚できないということになっている現代の風潮そのものも間違っとるんじゃないかと、私は強く思う次第なのでありますけれども。
『どとーの愛』は、「恋愛のススメ」の漫画ではありません。まあ、この漫画読んで、こんな恋愛をしたいと憧れる人はまずいないと思いますが。
この漫画が語りかけていることは、愛は狂気であり、愛はどとーである、でも愛してしまったのならしょうがない、愛はどとーなんだからしょうがない!! それに尽きるのです。
人間は誰しも心理の奥底にドロドロした情念や欲望を抱えながら、それを理性で抑え込んで社会生活を送っています。しかし、その理性を効かなくしてしまうのが、恋愛というものです。
常識的で、ごく普通だったはずの者をストーカーにして、犯罪者に変えてしまうのも恋愛のなせる技。「ストーカーになるようなものは、ホンモノの恋愛じゃない!」なんて言っても、欺瞞でしかありません。
恋愛するということは、パンドラの箱を開けるようなものであって、何が出てくるかわかったものではない。それでも恋愛するのなら、奈落の底に落ちる覚悟をしてからしろ!
クレイジーなギャグの乱れ撃ちを喰らい、その挙句とんでもないラストシーンを見せられた後で、そんなテーマがじんわりと残る。『どとーの愛』は、そういう他に類を見ない漫画です。
『どとーの愛』は自ら「純愛だらけの人生だった」「不純愛なんか一度もなかったね。純愛に次ぐ純愛。間断なき純愛の連鎖。純愛と純愛が重なってた時もまま、あった」と言う「純愛大将」のよしりん先生(『ゴーマニズム宣言EEXTRA①』)が到達した、恋愛というものの真理が描かれた漫画です!
恋愛はするべきだと人に勧めるものでもないし、そもそも恋愛する人は、やめろと言われたってやめられない。
恋愛したから幸福になるなんてものではない。でも、始まってしまったら後先なんか考えられない。
ただ、「どとー」あるのみ!
「どとー」なんだから、しょうがない!!
愛は「どとー」が正しい!