コロナ後の国家観のために
「ゴー宣道場」の門下生の中にも、新コロが怖いという人はいるはずだ。
そういう人は恥じることはない。
恐くないと豪語している門下生は世間の大勢からはかなり遊離している。
今現在は「恐い」という人が圧倒的多数で普通なのだ。
今後の「ゴー宣道場」では、コロナが怖い人、あるいは不安な人は、マスクして参加してもいい。
マスクしない人が多いから、同調圧力を感じるなら、参加する必要もないし、しばらく「ゴー宣道場」を離れたっていいのだ。
こういう時に「全員が同じ方向を向くのは良くない」とか、屁理屈を考え出す必要はない。
何度も言っているが、「ゴー宣道場」は相対主義の場ではない。
価値の順列をつけて、全員一丸となって、わしに合体し、同じ方向に向かって突き進む!
てんでバラバラの主張がぶつかって、結論も出ない、同じ方向に向こうとしない、目標が見えないという朝ナマ的な相対主義は、80年代に流行ったが、もはや廃れた。
世界に何も起こらない終わりなき日常の時代は完全に終わったのだ。
相対主義は、国家や社会を変えるのに役立たない。
世界は何でも起こり得る。
価値観を決めておかねば、翻弄されるばかりだ。
意見が違うから苦痛だと思うなら、黙って去っていけばいい。
静かに去っていく。それでいいではないか!
もとの『ゴー宣』の一読者になるのもいいし、わしが嫌いになったり、信頼できないと思えば、誰かほかの信頼できる言論人や政治家や文化人を見つければいい。
もちろん自分の頭で考えて行動する人間になるのが一番いい。
慰安婦問題や、『戦争論』や、原発など、何か重大な事件が起こるたびに、反発して決別せざるを得ない人々は出てきた。
今回も、このコロナ禍で、「恐れないのはイヤだ!」と言うなら、離脱すればいい。無理をしたら精神を病む。
「ゴー宣道場」が社会ではない。
自分が苦痛なら、安心な場所に行けばいい。
「ゴー宣道場」はコロナ後の国家観を見つけ出そう。
明日、山尾志桜里議員が新たな戦いの行動を起こす。
我々はこれを応援しようと思う。
まだリアルに国家を変える希望は失わない。