生原稿がない不便さ
11月10日に福岡開催での「九州・ゴー宣道場」で、門下生たちが、わしの「絵コンテ展」をやってくれる。
なぜ生原稿でなく絵コンテなのかと思うだろうが、実はもうほとんどの漫画家が「生原稿」というものを持っていないのが実情なのだ。
わしのスタッフもコンピュータで絵を描くので、画稿はデータでしか残らない。
これが大問題で、わしが仕事場に行っても、生原稿がないので、進行具合が全く分からないのだ。
昨日は締め切り間際でプリントアウトして出てきた原稿を見て激怒してしまった。
「ゴー宣道場」の会場の様子が全然違うのだ。
時浦と宇都は何度も見て来たはずなのに、自分で絵を描いていない。
どうやら広井に口で説明しただけで、途中で絵を見て、「これは違う」と指摘して、「自分で描き直す」こともしていない。
見て来た者が描くのが一番いいのに、自分で描く意欲がまったくないのだ。
そもそも門下生たちが見ている道場の様子と全く違う絵が描いてあったら、恥をかくのは時浦と宇都ではないか?
どう言い訳したって絵を描くプロとしての矜持が問われる。
これからは締め切り日の午後3時に、必ず一度、プリントアウトして、仕事場で、岸端も含めて、全員で絵のチェックをすること!
それをわしにファックスして、その時点でわしもチェックをする。
いつも「何時にコピーを送ってくるか?」と尋ねたら、「夜です」などと、適当な返事が返ってくるだけ。
生原稿がないのだから、締め切り間際に出てきたって、修正が間に合わなくなる。
だから不安で尋ねてるのに、鈍感すぎてまったく腹立たしい。
しかし「FLASH」の担当・りか坊は、原稿が上がると、仕事場でじっくり見て、絵の間違いや、見落としを指摘する。
あれは恐るべき注意力だ。
漫画の編集者なんかやったこともないくせに、絵のものすごく細かいミスを見逃さない。
ああいうのが、やっぱり女性の凄さなのだろう。
ファッションに対してのこだわりが活きるのかもしれないし、そもそも職業柄か、芸能人を見逃さない眼力がすごい。
その細かさが言葉狩り的な神経質さにもつながるので、なかなか面倒な編集者である。
だが、絵に対する注意力は、わしのスタッフがもっと見習わなければならない。
そういうわけで、生原稿がない今となっては、わしの「絵コンテ」こそが価値があるので、妻とみなぼんの奪い合いになる。
その「絵コンテ」の展示会を11月に福岡で開き、しかも飾った額の枚数分、参加者にプレゼントすることになる。
当選者は木蘭さんが決めてくれるだろう。