「公の言葉」を復活させた!~プレイバック『戦争論』インタビュー⑥
(byよしりん企画・トッキー)
さらに本質に迫る!
プレイバック『戦争論』インタビュー!
それであの中に描いた公的な言葉、私的な言葉というのは、今は個人主義の時代になりましたから、プライベートな言葉つまり、本音が大事であり、本音を言え、本音は素晴らしい、本音主義は格好良いみたいな形で、八十年代ぐらいから特に大きく若者の中に浸透していってしまうんですね。
大人は本音ではなく、建前を言うから嫌だとね。
ある意味わしも、小林よしのりは本音をずばずば言うから良いというような言い方で誤解されているような部分もありますけど、本音を言いさえすれば良いのであれば、最終的に行き着く所は、美味い物を食って、女抱いて遊んで暮らすのが一番良いわと、そういう所に行き着いちゃいますよ。
人間の本音を全部剥き出しにして言ってしまったら、動物になっちゃいますもの。
動物の本性の言葉が結局は本音で、プライベートな言葉っていうことになっちゃいますから、本当はそこを乗り越えなければいけないんであって、人間は自然に生きていれば、社会の中でちゃんと生活していれば、いつのまにか公的な言葉と私的な言葉というのは同時に生まれてくるものなんですよ。
それを戦時中の兵士、軍人たちに託して描いたわけだけれども、例えば当時の人達は誰も本当のことを言えば特攻隊に行きたくなかったはずだとか言ってくる輩がいる。
行きたくない人もおるのは当たり前ですよ。
本音の部分で言えば、兵隊にだって行きたくないに決まっているんだから。
誰も死にたくはないし、誰も殺したくはないし、そんなことは当たり前なわけですからね。
だから、自分のお母さんに宛てたプライベートな手紙に「お母さん、僕は明日死ぬかもしれません。すごく悲しいです。お母さんに会えないかも知れません。僕はお母さんの名前を呼んで死んでいくことでしょう」と書くかも知れませんよ。
でも、もう片一方で、人前に出た時は自分は自分の仲間を捨てられないと、自分の故郷の人間達を捨てられない、自分は国のために戦う、天皇のために戦うと言って死んでいくわけですよ。
それは公的な意識ですよ。
本当は人間は皆同時に持ってるんですよ。
それを戦後左翼の人間達が例えば私信とかそういうものまで全部ほじくり返して、ほら本当は行きたくなかったんじゃないか、ほら本音はみんな死にたくないんだろう、本音は戦争は嫌なんだと、それだけを言いますけれども、それだけが人間の言葉の全てじゃないんですよ。
本当は死にたくない。とにかく行きたくない。
しかしながら、自分は守らなければいけないっていくところにその公的な言葉が現れるわけで、そこもある意味で言えば本音と言えば本音ですし、自分のもう一つの気持ちなんですよ。
「ゴーマニズム宣言」を描いていれば、オウムのことは触れたくない、オウムのことなんか描いたら絶対復讐に来る、嫌がらせに来る、抗議に来る、あれだけは止めた方がいい、周りの人間はみんな言いましたよ。
みんな言ったけれども、どう考えたって坂本弁護士事件の犯人はオウムなのに、何で今はオウムじゃないという話になっちゃってるんだという疑問が、どう考えたってあるわけだし、それは怖くて嫌だけれども言わなければいけないと思い定めて言っちゃうわけでしょう。
言ったら抗議が来るし、後から尾行され始めるわけですよ。
尾行されれば怖いですよ。
本当に本音主義が正しくて素晴らしいことならば「描くのはもうやっぱり止めます」と「僕は怖いですから」と言っちゃえばいい。
それが私的な言葉でしょう。
けれども、そうはいかない。
これをこのまま放置していたら、やっぱりある一家がそのまま拉致されたままで、どういう状態になってるのか分からない。
ちゃんと普通の生活に帰してあげなければならない。
あるいは殺されてるのかもしれない。
それにこういう危険性はあちこちで起こっているような気がする。
それはオウムの機関誌なんか見てみれば何となく分かるんですよ。
どうもあっちこっちで拉致して洗脳したりしているんじゃないかと。
松本サリン事件が起こった時も、「ヴァジラヤーナ・サッチャ」という彼等の機関誌を見たら、毒ガスの話ばっかりしてるんですよ。
毒ガスに襲われたとか、尊師が車で移動してたら、両脇から何物かが毒ガスを撒いて去って行ったと載っているんですよ。
おかしい、これは。
松本サリンの時、毒ガスで周辺の住民が死んだ。
あんな変な事件がこの日本で起こるなんておかしい。
片やオウムの機関誌の中に毒ガスの話ばっかリ載っている。
これは一体何なんだ。
これはとんでもないことが起こるんじゃないかというような予感とかあるわけでしょう。
怖いけど、やっぱり私心を超えて警告していかなければならないというのがあるわけじゃないですか。
私的な言葉を乗り越えて公的な言葉を持たなきゃいけないこと、発しなければいけないことが世の中いくらでもありますよ。
そこを全部含めて人間の言葉だっていうことを認識しないと。
全部プライベートな言葉だけ取っていって出版した『きけわだつみのこえ』も、やはり個々の兵隊の言葉の中には、「国のために自分は死ぬ」という公的な言葉もあったようで、それを全部削除していたことがわかっています。
そんなばかな話がある訳ないんであって、それも人間全体の言葉なんですからね。
(「翼」平成11年1月号)
先日の「サンデーCROSS」のあの街頭インタビューの件などは、まさにここで話しているような「公的な言葉」が、20年の時を経て復活した事例と言えるでしょう。
そして、オウムと戦った時の生々しい体験から来た「公的な言葉」についての話、これほど説得力のあるものはありません!