表現の自由は常に戦って守るしかない
昨日は編集者とまた言葉狩りの議論があった。
「『狂気の沙汰』という言葉はいかがなものか?」という注意が上からあったというのだ。
「狂気の沙汰も金次第」という筒井康隆の本のタイトルもある。
「狂気の沙汰」は、もはや日本文化に定着した言葉だ。
わしのように暗殺計画を立てられても、裁判沙汰になっても、自分の表現を守ろうとして戦うことだって、「狂気の沙汰」と言えるかもしれない。
小室圭に対して、あれほど徹底した全否定のバッシングを繰り広げているテレビのワイドショーや、識者やタレントたちも「狂気の沙汰」と言うしかない。
コロナを怖れず、30名の大宴会を決行する「ゴー宣道場」の門下生だって、コロナ脳患者から見れば、「狂気の沙汰」だろう。
逆に、マスク会食だって、うちわ会食だって、わしから見れば「狂気の沙汰」だし、飲食店を回って営業妨害している見回り隊だって「狂気の沙汰」である。
そもそも1年以上にわたって、コロナ恐怖症を発症させているモーニングショーは確実に「狂気の沙汰」であって、恐怖煽りばっかりしている尾身会長らエセ専門家の連中も「狂気の沙汰」であり、あんな馬鹿どもに洗脳されている政治家どもも「狂気の沙汰」である。
「狂気の沙汰」という言葉をこの世から消滅させようという言葉狩りも「狂気の沙汰」としか思えない。
編集者は上から言われて、一応こういう意見もあるからということで言ってきた。
その編集者を責めたくはない。
ただ、もう漫画家になって40年以上、年がら年中、「言葉狩り」「自主規制」との戦いである。
失われた言葉は膨大にある。
中国では「天安門事件」という言葉は消去されていて、人民は知ることができない。
表現の自由がないのだ。
日本だって、国民の知らないうちに、「言葉狩り」によって表現の幅は日々、縮小しているのだし、人々の思考の幅は収縮しているのだ。
「表現の自由」と簡単に言うが、ヒステリックフェミのポリコレ集団リンチに与することによって、自分たちが表現者の敵になっていることに全く無頓着なのだから、その欺瞞的な態度には辟易する。
わしは、わし以外の全てが、わしの表現を妨害する敵だと思っている。
「狂気の沙汰」の削除は受け入れなかった。
担当編集者も同意してくれた。
「表現の自由」は常に戦って守るしかない。
グローバルダイニングの社長や、弁護団が、本当にその表現を守りたいかどうかであって、本気でなければいくらカネが集まったって、負ける。
経営者だって、弁護士だって、政治家だって、編集者だって、実は表現者である。
表現者は常に覚悟が問われている。