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2019.12.03(火)

わしは原理主義者ではない

 

今日、ケント・ギルバートと対談することになっている。
「WiLL」の依頼だが、「SPA!」に落とされた慰安婦の章を掲載してくれたから、応じることにした。
これは「義」である。儒教の観念と言えるかもしれない。
日本人も儒教に縛られているのではないか?

最近、朝鮮を理解するために儒教の勉強を始めた。
原理主義的に儒教を徹底させたから、朝鮮は近代化できなかったのかもしれない。
問題は原理主義なのではないかと思える。

それを言えば日本にも原理主義が発生している。
皇位の「男系主義」である。
原理主義は進歩を受け入れない。
戦後日本の進歩主義は好きではないが、進歩を受け入れないのは滅びへの道でもある。

わしは天皇制を支持するが、同時に天皇制なしで日本はやっていけないのかということも考えている。
大嘗祭は藁ぶき屋根で、国費を使ってやるしかない、それが伝統と言われれば、一応信じてしまうが、秋篠宮さまのあの揺るがぬ態度を見たら、それは上皇さまの考えではなかったかと、考え直す余裕は持っている。
原理主義ではないからだ。

天皇制に関しては、天皇の考えひとつでシステムは変えるしかなくなるし、考え方のバージョンアップをしていくしかない。
それは良い意味での承詔必謹だろうと思う。
バランス感覚としての伝統を、天皇以上にわしが身に付けているかは分からないからだ。

人は容易に観念に縛られるが、観念の呪縛に陥ると、李氏朝鮮のように衰退と退廃に向かう。
儒教を原理主義にしたのは朱子学のせいだろう。
韓国や中国の「反日」が果たして儒教のせいなのかは、もっと考えてみる必要がある。