弱者の人権バブルが表現を圧縮する
もしかしたら「新潮45」休刊の件が、影響を与えたのかもしれない。
昨夜は2時間以上、作品内の言葉をめぐって編集者と議論をしていた。
自己規制、言葉狩りの締め付けがまた厳しくなった。
会社内のマニュアルにも載っていない言葉を修正する必要があるのだろうか?
わしが作品中で、政府の政策に対して「頭、ヘンですよ」と書いた部分を、脳の障害者を傷つけるというのだ。
どう読んでも、障害者に対して書いた言葉ではなく、政治家や官僚の「頭、ヘンですよ」としか読めないのに、この一行を切り取って、障害者差別だとするのは度が過ぎている。
修正案が「頭」を消して、「狂っている」ならいいとか言われたが、わしにはその方が危険な気がする。
「おいおい、君って頭ヘンだよ」というのは、日常で普通に使う言葉だと思う。
「おいおい、君って狂ってるよ」の方がキツイと思う。
さらに「アタマ、変ですよ」という表現ならいいとか、わしにはもう不毛な議論に思えて、疲れてしまったので、「それでもいい」と応えてしまった。
他にも解せない部分で、修正を強いられたのだが、あるはずのない抗議や、いるはずのない被害者を恐れて、言葉狩りに励む感覚は、もはや「強迫神経症」の域に達している。
弱者を名乗る何者かの抗議を恐れているのだろう。
ようするに人権バブルなのだ。
「弱者を傷つけるな」「弱者の人権を守れ」の同調圧力が「新潮45」の休刊で、さらに高まり、文脈を完全に無視して、一行一行に目を光らせ、自主規制に励む状態になっている。
編集者の個人個人を責める気はない。
わしにとって非常に役に立つ仕事ぶりを見せてくれて、感謝している。
だが、弱者を恐れすぎているのだ。
恐れすぎるあまり、いるはずのない弱者を権力として祭り上げ、常に弱者権力に怯えて、自己規制を強めている。
表現者がこれに妥協して行くことは、あまりに危険だ。
戦前の新聞の検閲も、軍部からの圧力だけではない。
新聞記者が自ら自己規制・自己検閲をしていたと、むのたけじが証言していた。
明確に差別になる言葉は修正してもらって全然構わないのだが、編集部の上の人たちには「強迫神経症ではないですか?」と言っておきたい。
ハラスメントもそうだが、「弱者の人権」という風圧が権力と化して、猛威を振るっている。
描きにくい時代になった。