「『タコちゃんザ・グレーテスト』悪が正義で正義が悪で!?」(byよしりん企画・トッキー)
「ヒーロー漫画」をジャンルの根底から問い直す快作、『タコちゃんザ・グレーテスト』。
この作品は「月刊少年チャンピオン」1986年9月号から翌年5月号にかけて連載されました。
これには前身となる作品があります。1984年に「コミックバンバン」に連載された『タコちゃんザ・グレート』です。ただし、『グレート』と『グレーテスト』はかなり作風が異なります。
『グレート』はとにかくやりたい放題のギャグが痛快な作品で、よしりん先生が自分でセリフに曲をつけ、その楽譜を載せながら展開する「史上初のミュージカル漫画」という空前にして絶後(今後こんなことやろうとする人など、たぶんいないでしょうから)の企画まで登場します。そして、やりたい放題がエスカレートして、どぎつくなったところでよしりん先生が登場し、「小粒にまとまるくらいなら、大いなる破壊を選ぶ! だれかわしのマンガをアニメにしてお茶の間に流してみいっ!」という捨てゼリフと高笑いを残して終了するという、とんでもない代物でした。
この当時はよしりん先生、すっかりマイナー誌作家扱いされていて、わずかその5年後に『おぼっちゃまくん』が土曜のゴールデンタイムのテレビに登場し、同時間帯1位をキープするなんてことは、誰も夢にも思っていなかった時代なのです。この『グレート』の方も、いずれ詳しくご紹介しましょう。
いささか中途半端な形での連載終了を余儀なくされた『タコちゃんザ・グレート』ですが、このキャラクターにはよしりん先生自身、かなり思い入れがあったようで、掲載誌を変え、設定をリニューアルして『タコちゃんザ・グレーテスト』として再登場となったわけです。同時期には「コロコロコミック」で『おぼっちゃまくん』の連載もスタートしており、メジャー感も格段にアップしています。
物語は最初だけ、SF調です。
地球をはるか離れた海洋星、表面を全て海で覆われたその星では、タコから進化した善の心を持つオクトパシアンと、カニから進化した悪の心を持つガニアンが星を二分して戦争をしていた。
やがて戦闘は星の中に留まらず、宇宙へと飛び出していった。そんなオクトパシアンとガニアンの戦闘機が闘いながら地球の海に流星となって墜落する。
その時、たまたま海辺にキャンプに来ていた主人公、蛸田墨雄や蟹江泡之介たちは、その流星の落下を目撃した。
海底に沈んだガニアンは、絶命する前にそこにいた自分の原始モデル、すなわちカニに自らのパワーを与え、地球を征服させてやろうとする。一方オクトパシアンはそれを阻止すべく、タコに自分のパワーを与えてこと切れる。
そして、宇宙生命体のパワーと善の心を持ったタコが蛸田にとりついて正義のヒーロー、タコちゃんザ・グレーテストが誕生。同じくパワーと悪の心を持ったカニが蟹江にとりついて、悪の帝王、キング・ガニラーが誕生する!
…と、出だしは『ウルトラマン』の第1話を思わせるような正統派ヒーロー漫画調なのですが、もちろんそのまま進むわけがありません。
正義のタコがとりついた蛸田は、実に俗っぽく、邪悪な心も持った人物だった!
悪のカニがとりついた蟹江はとてつもなく実直で、善良な人物だった!
これ、どっちが正義で、どっちが悪になるの?
なんとも意地の悪いというか、一筋縄ではいかないこの「ねじれ」が、作品最大のポイントになっています!
タコちゃん・ザ・グレーテストは手足がタコの吸盤のように吸着し、壁や天井を自在に動ける能力と、墨を吐いて空間にベタをつくり、その上を歩けるという能力を持っています。対するガニラーは、タコちゃんの墨や吸着を落とす泡と、よく切れるチョッキリハサミが武器です。考えてみたら、どっちもそれほど大した武器を持っていません。
それでもとにかく俗っぽい蛸田は「正義のヒーロー」になったことが嬉しくて、活躍したくてたまらないのですが、学園内は平和で、一向に出番はありません。正義のヒーローというのは単体では存在しえず、必ず悪の敵を必要としているというヒーロー漫画の構造を、さりげなく皮肉って見せています。
タコちゃんは蟹江を見つけて、「いつになったら事件の一つも起こしてくれるんだっ!? そろそろ世界征服のために悪事を働いたらどうだーっ」と詰め寄ります。言われた蟹江は、「そ…そうだった。ぼくは悪のヒーロー、ガニラーなんだから、悪いことしなくちゃいけないんだっ! 人がいいもんですっかり忘れてた」とショックを受ける始末です。
で、蟹江は取りあえずガニラーに変身して現れたものの、根が善良なので「悪事を働く」といっても、何をやったらいいのか発想すら浮かばずに、戸惑うばかりという有様なのです。
よしりん先生は、よくヒーローものに登場するような「勧善懲悪」の物語のような人物なんか、現実にいるわけがないじゃないか! という不満を募らせていたといい、そして考え出したのがタコちゃんとガニラーのキャラクターだったのです。
必死に努力して悪のヒーローになろうとするのに、それがどうしてもできないガニラー。
正義のヒーローを自称しながら、自分で自覚すらせずに易々と悪事を行っていくタコちゃん。
正義の心を持った宇宙ダコが貼りついた中学生・蛸田墨雄が変身するタコちゃんザ・グレーテスト。
悪の心を持った宇宙ガニが貼りついた中学生・蟹江泡之介が変身するキング・ガニラー。
正義のヒーロー対悪のヒーロー、宿命の初対決の火蓋がついに切って落とされた!
…はずなのですが、その戦いは、一向に白熱したものとはなりません。
なぜなら、悪の宇宙ガニが貼りついた蟹江泡之介は品行方正な優等生で、悪事を為そうとしても、何をしたらいいのかすら思い浮かばない人だったから!
一方のタコちゃんザ・グレーテストこと蛸田墨雄は邪念だらけの劣等生で、ただヒーローとして目立ちたい、スターになりたい、それだけでした!
ガニラーが学生食堂に現れたとの知らせに、タコちゃんは正義のヒーローとして目立てると、勇んで駆けつけます。ところがそこでガニラーは
「出てきてはみたけれど悪事が思いつかんのだガニ~~~~っ」
とひたすら困惑しています。そんなガニラーにタコちゃんは、
「ガニラー! さてはきさまみんなの食事を妨害しにきたなーっ!」
「食事に異物を入れてみんなを食中毒させるつもりだったな」
と叫び、ガニラーは
「な…なるほど たしかにそのつもりでいたガニーっ」
と答えるのです。
その後も、ひたすら真面目に悪事を行おうという使命感に燃えていながら、悪事らしい悪事も思いつかないガニラーに、タコちゃんが
「ガニラー、さてはきさま、○○をするつもりだなーっ!」
と叫び、ガニラーに無理やり悪事をやらせてしまうという展開が度々登場します。
何の意識もなく易々と悪事を口に出すタコちゃん、言われて仕方なく、苦悶の表情を浮かべながら悪事を行おうとするガニラー。
そして、二人の直接対決でも、周囲の迷惑など何も考えていないタコちゃんがあたりかまわずタコスミ噴射の攻撃を仕掛け、気配りのガニラーがアワでスミを落として回って感謝されてしまうという具合に、戦えば戦うほど、どっちが正義でどっちが悪なのか、全然わからなくなっていくのが、この作品最大の見どころとなっています。
そんな中で異色の作品が第7話『悪の帝王!』です。
タコちゃんとガニラーが通う都立西恋墨(にしこいずみ)中学に、ヤクザもビビる不良校の吉本中学から、一番のワルが転校してきました。もともと大した戦闘能力のないタコちゃんは全く太刀打ちできないのですが、「正義のヒーロー」としてどうしても戦わざるを得ないところに追い込まれてしまいます。
そこでタコちゃんが採った手段は……なんと、ワルが降参するほど悪逆非道なことをするというものでした!
これは「ワルでワルに勝つ正義のヒーロー」という前代未聞の一篇となっていますが、力のない者が正義を行使するには「卑怯」も必要というのは、ごく初期の『ゴー宣』(第42章)など、よしりん先生の漫画に時々登場する真理であります。
さて、80年代の連載当時、大人気だったヒーローといえば、バラエティ番組『オレたちひょうきん族』の『タケちゃんマン』でしょう。
ヒーローものとは何の関係もないパロディドラマが展開された後、「お前、ブラックデビルだろう!」「よく見破った、タケちゃんマン!」「変身!」といったやり取りから一変、ビートたけし扮する正義の味方「タケちゃんマン」と、明石家さんま扮する悪の「ブラックデビル」「アミダばばあ」など敵キャラの対決コントが始まり、アドリブの応酬の末、さんまが一方的にヒドイ目に遭わされてタケちゃんマン勝利、というのがほぼ毎回のパターンでした。
パロディとして「どうせならとてもヒーローとは思えないかっこ悪い」ヒーローを作ろうと企画されたそうですが、主題歌にも「強きを助け、弱きを憎む」とあったようにタケちゃんマンは小悪党的なキャラクターで、さんまの敵キャラのほうが可愛く見える場面がしばしばありました。
こう書くと、「タコちゃん」と「タケちゃん」が似ているような感もありますが、比べるとやはり決定的に違います。
『タケちゃんマン』は、もう正義も悪もないという感覚で従来のヒーローものを相対化しています。相対化というより、形骸化といった方が適当かもしれません。あらゆる価値を相対化(形骸化?)しちゃおうというのがまさに80年代の時代感覚であり、『タケちゃんマン』はその時代感覚を捉えて大ヒットしたと言えるでしょう。
しかし『タコちゃんザ・グレーテスト』、そしてその前作『タコちゃんザ・グレート』は、従来のヒーローものをパロディ化し、善悪の価値観を相対化して見せるのですが、善も悪もないというのではなく、それぞれの登場人物が善も悪も含んでいます。そして、自ら正義や悪を目指していながら、どうしても目指したとおりにはならないという、人間の性のようなものまで描き出しているわけです。
80年代、ひたすら既成の価値観を茶化していれば受け、テーマ性のあるものは敬遠されていた時代に、それでもよしりん先生はギャグの中にこんなテーマ性を潜り込ませて描いていたわけです。
「だめだっ! まだまだハードな知性が見え隠れしているっ!! 軽さに徹したつもりだったのにっ! 重厚なテーマは巧みにギャグでおおいかくしたはずだったのにっ! そのうえ描き進めるうちにヒネリが効きすぎて一般読者の理解の範疇を超えてしまっているっ!」(『タコちゃんザ・グレート』第10話)
とか言いながら。
これも、作家の性というものなのでしょうか。