結局わしの『戦争論』以上の思想は現れない
今朝の朝日新聞で平和主義の女性の政治学者の長文を読んだが、政治学者も色々いるもんだなあと知った。
そして、反戦平和主義の思想の甘さを再確認した。
やっぱりわし自身の『戦争論』が、いかに凄かったかと自画自賛する道に戻るしかないのかもしれない。
ウクライナ戦争が、あらためて知識人に「戦争」や「国家」に対する思想を再考させている。
それほどまでに「ウクライナ戦争」は知識人や学者を葛藤に陥れ、思想の再考を迫る重大事である。
だがしょせん知識人も学者も「戦後民主主義」の学校教育の範囲内での思考しか出来なくなっており、それが戦後教育に洗脳された学歴秀才の限界である。
サヨクの政治学者も、自称保守の「クライテリオン」の知識人も、性根は「戦後の日本人特有」の平和主義の頸木から逃れられない。
それを炙り出すまで『ウクライナ戦争論』を描き続けるしかないかもしれない。
実を言えば、コロナウイルスに対する「生命至上主義」も「戦後の日本人特有」の感覚として通底しており、藤井聡氏が結局ワクチンを打ってしまったという態度は、三浦瑠麗らリベラルの「ワクチン信仰」にも共通している。
わしはマッチョイムズが保守だなどと言うつもりは毛頭ないのだが、コロナはインフルエンザ並み、ワクチンは無意味と言えば、それはマッチョイムズであり、右翼だと捉えられる。
まさかわしの対処こそが「科学」だとは、夢にも思わないのだろう。
だが現実に海外の先進国では、誰もマスクはしてないし、ワクチンも打ってないし、スウェーデンではこの3年間、ノーマスクで乗り切ってしまった。
日本人だけが国粋主義的に、海外の情報を否定してまで、ゼロコロナを続けているのである。
お上を信じて!権威主義に嵌って!世間の目を恐怖して!
わしはますます『戦争論』の思想・哲学の正しさを、日々、確信するしかなくなっている。
結局は死生観なのである。
死生観を問うために、絶妙な感染症が流行り、絶妙な戦争が勃発した。
日本人はことごとく敗れ去っている。