「ゴー宣道場」にゲストを呼ぶ難しさ
「ゴー宣道場」でゲストを呼ぶ場合の難しさに
直面している。
宇野氏、古市氏の場合は、意見が違っていても、
議論する余地があった。
宇野氏には持論を修正する余裕さえあったし、
古市氏も皮肉を交えながらも互いに敬意を払う
礼儀があった。
だが、相手に対する礼儀、「ゴー宣道場」という場に
対する偏見と侮蔑を顕わにするゲストの場合は、
のちに禍根を残す結果となる。
さらに自分の主張が理解されない場合、「理論」よりも、
「感情」が優先して、プライドが傷ついたと感じ、後日、
誹謗中傷を言い出す、こういう場合はどうにもならない。
わしとしては、「誹謗中傷」には乗らない。
「理論」が正しいか否かだけを問題にする。
先日BS日テレで行った屋山太郎氏とわしの議論を
見ていただきたかった。
対立する意見だが、相手を中傷しない、よく聞いて、
自分の意見を表明する、その意見の応酬を見た観客に、
判断を委ねる、それだけに終始した。
「意見は違う、だが感情の応酬はやらない、
論理の応酬だけを行う、
相手への敬意は忘れない」
これだけのことが、なかなか出来ないものだ。
もちろん、わしが屋山氏の考えに納得したわけでは
ないから、説得できなった部分は、さらに自分の
論理を磨いておく。
そういうものが「議論」の場なのだろう。
はっきり言って、『ゴーマニズム宣言』という漫画は、
このような議論のルールを守ってきたとは言えない。
「感情」で論敵を叩く部分も多かった。
「軽蔑」には「軽蔑」をという応酬が多々あった。
だが、『ゴーマニズム宣言』からこの「感情」を捨てたら、
おそらく漫画として成り立たなかっただろう。
それは「漫画」というものの性質によるものだ。
それでも、エンターティメントとしての「感情」と、
議論の核心となる「論理」を、多くの人々が
無意識にせよ、腑分けして支持してくれた結果が、
今日の『ゴー宣』の成功に繋がっていると思う。
「ゴー宣道場」は漫画ではない。
「感情」の応酬は避けたい。
リアルな人物が真実を求めて、議論で切磋琢磨する
「道場」なのだから、ゲストを呼ぶ場合に、相手の人格を
含めて熟考しなければならない。
意見・主張が違っていても、誹謗中傷ではなく、
「論理」だけで議論することが出来る人物、
議論のためにお互いに「敬意」を払い合える人物を、
ゲストに呼ばなければならない。
「ゴー宣道場」の参加者は、毎回、半分は流動的である。
どんな思想傾向の者か、わからないのだ。
門弟も含めて、参加者の中には、わしと意見が
対立して白熱するだけで喜ぶ者が多い。
そういう傾向からみても、「ゴー宣道場」は決して
わしを尊師と崇める場ではない。
そもそも「自分の頭で考えろ」と口を酸っぱくして
言っている尊師などあり得ない。
それどころか、わしと対立する意見の登場に喜ぶ者が、
参加者にはいる。
野次馬根性もあるが、そこには勝手にわしに権威を
感じる者が、権威が倒される瞬間を見たいという欲望を
潜ませている場合だってある。
つまり「エディプスコンプレックス」の発露である。
父殺しの出来なかった者は、わしに父権を感じて、
アンチの感情を育ててしまう。
反抗期は肉親の父親にぶつけてくれと思うが、
あいにく父殺しが済んでいない大人が増えてきた。
そのコンプレックスを引き受けなければならないわし
だから、躾の出来てない子供を押し付けられる
教師には、同情してしまう。
「道徳」の問題も、そういう時代性を考慮して、
考えなければ仕方がないのだ。