公と私、空転する意欲
自分自身と周囲の者の覚悟の差が凄すぎて呆然とする。
この一冊で何が何でもの勝負と、眦を決して
描いているのに、誰も分からんようだ。
わしは8月中に今描いている作品のコンテを
上げたいと必死である。
だがもうほとんどその見通しを修正しなければ
ならないほどの遅れが出ている。
わしの焦りを察することもなく、今日の夕食は外で
ディナーにすると妻が言い出す。本当にむかつく。
ふざけるな、勝手に決めるなと一喝。
わしは今日中に一本ペン入れを済ませて、
ただちに次のコンテを開始したいのだ。
ものすごい意欲に燃えていたのだ。
だが仕事と言う「公(パブリック)」には、
「私(プライベート)」の安定が大いに影響する。
家族やスタッフへの気配りを考えていないと、
いい仕事はできないのも事実なのだ。
理研の笹井教授が自殺したのも、NHKスペシャルで
小保方さんとのメールのやりとりまでばらされたことが
大きかっただろう。
週刊誌があのような「私事」を暴露するのと、
NHKが暴露するのでは影響力が違う。
女(私)に血迷って仕事(公)をしくじったとなると、
その評価はたちまち家族(私)の信頼を崩壊させる。
もし家族が、笹井氏の社会的名声が地に落ちようと、
断固支えるという覚悟をしていれば、自殺するまでに
追い込まれることはなかったかもしれない。
公的な領域と、私的な領域のバランスをとるのは難しい。
そういう煩わしさから逃れるために、昔は1ヶ月くらい
東京を離れてカンヅメしていたが、最近は体力が
なくなって、食事の栄養のバランスが崩れたり、
クーラーや空調のかげんが合わないと、
喘息が出たりする。
歳をとっているのだ。もう時間がないかもしれない。
描きたいものがあるから描きたい。
描けなくなる前に描いてしまいたい。
そういう思いは強くなるのだが、仕事に集中できない
煩雑な私事が出てきて、空転していく。
描きたいと思うことは悪いことだろうか?