巴里の街並みから考えること
巴里の街並みは石造りの建物に挟まれている。
高層ビルは街の中心にはない。
そこが日本に比べて立派だ。
常に日本と比較してしまうが、良い意味での個人主義は
どうしてもフランス人に感じてしまう。
自由、平等、博愛と言っても、平等をさっぱり感じなくて、
日本の方が平等への強迫観念が強い。
日本のネット世間があれほど平等な匿名集団になるのは、
世界でも珍しいのではないか?
それは個人として認めてもらえない連中の匿名村であって、
自分の名と、自分の顔と容姿と、自分のキャリアでは、
誰にも信用してもらえない連中にとっての楽園に過ぎない。
あれが個人の集合知となるという考えは、
やはり全然同意できない。
お互いの顔を見ただけで、話す気にならない、
喋り方を知っただけで、付き合いたくない、
付き合うと、ネットに書き込む文章とは明らかに違う人格が現れ、
殺人にだって発展しかねない者たちが、
ネットの中では平等になって、誰かを攻撃し、
誰かに傷つけられ、誰かとつるんで暴走している。
あのネットの匿名村は、
やはり過去の日本のムラ社会の反映なのだ。
おフランスかぶれを承知であえて言うが、
フランス人に感じるのは、自由と個人だ。
若者の服装と、老人の振る舞いを見ていて、
日本人とは全然違うものを感じる。
歴史が影響してるのだろうから、本当は思いきり
勉強したい。
街の建物はローマ帝国からの影響を継続していて、
オペラ座や、ヴァンドーム広場のナポレオンの像や、凱旋門や、
ジャンヌダルクの像や、シテ島のノートルダム寺院などを見てると、
幾層にも埋め込まれたドラマティックな歴史の残像を
いやでも感じてしまう。
ヨーロッパの歴史として、勉強したいものだ。
だが日本に帰れば、日々の仕事に追われるだけだ。
そもそも日本の歴史すら、謎だらけなのだ。
巴里に来て、これを描いたら画期的だなと思う本の
アイデアが浮かんだが、作業がついていかないので、
形になるのはいつのことかわからない。