「恋愛禁止条例」から「恋愛スルー条例」へ(その9)
高校野球ではハンカチ王子の人気は圧倒的だったが、
プロの世界では田中将大の実力の方が圧倒的だった。
AKB48のメンバーのほとんどが普通の子であり、
高校野球の選手と同じアマチュアである。
だが、現在はAKBのブランド力が
メンバーの実力を圧倒的に上回っているので、
AKBの看板さえあれば、テレビに出演できる。
AKBの看板をはずして、個人で芸能界で生き残れるか
と言えば、ほとんどの子が難しい。
前田敦子だって、大島優子だって、
個人の実力の証明はまだこれからだ。
元AKBのブランドを人々が忘れるほど、
個人の実力が発揮されたときに、成功したと言えるのである。
他のアイドルグループにだって、
ルックス・歌唱力・ダンス・キャラ、素質から言えば
上の子がいるだろうが、AKBではないから埋もれている。
ここまでのブランド力を作った秋元康の力はすごいが、
初期のメンバーたちの功績は多大である。
あと10年経ったら、ほとんどのメンバーが
元AKBの普通のおばさんになって、子育てをしているだろう。
アイドルの原語は「イドラ」で、
偏見で対象の真の姿が見えなくなる状態のことだ。
AKBは人々に強力な偏見を植え付ける装置として
機能している。
アマチュアの普通の子を、等身大以上の偏見で見るために、
「恋愛禁止条例」が必要だったのだ。
最も強力な偏見は「恋愛」だからである!
恋愛をしたことのある者はわかるかもしれないが、
人は恋すると常識を失い、狂った状態になる。
後で考えると、みっともない恥ずかしい行為を、
恋愛中は夢中でやっているものだ。
酔っぱらいみたいなものである。
だから浮気しても彼女や妻にすぐばれてしまう。
狂ってるから当人には自覚がないが、
彼女や妻から見れば、様子が明らかに違うのだ。
推しメンに不利なことを言う、
あるいは言うかもしれないと思っただけで、
小林よしのりに対して、敵意をむき出しにして非難するのも、
恋愛状態だからしょうがないのだ。
AKBの評論が難しいのは、恋愛中の酔っぱらいが、
狂気の憎悪を剥き出しにして絡んでくるからであって、
身の危険すら感じるからである。
オウム真理教を批判したときの、狂信者からの
非難と抗議の手紙や、銃弾入りの封筒を思い出してしまう。
男も女も、恋愛中の人間ほど厄介な人種はない。
そんな目に合いながら、なぜ書くのかと言えば、
そこに評論すべき社会現象としての対象があるからである。
AKB48は、まだ分析するに値する好奇心の湧く現象である。
(つづく)