村山談話・河野談話に未来はあるか?第11回
村山談話・河野談話に未来はあるか?
第11回 反日市民団体が慰安婦に目をつけた
DVDなどで見てみるといいが、戦争や軍隊が題材になっている
60年代くらいまでの日本映画には「慰安所」はごく普通に出てくる。
それはあくまでも戦地の軍隊相手の「遊廓」であり、
そこで様々な男女の悲喜劇が描かれていた。
千田夏光の著作を「原作」とする1974年(昭和49)の映画
『従軍慰安婦』(鷹森立一監督・石井輝夫脚本)ですら、
家のために売られた慰安婦と、その恋人が戦地で再開する
…というメロドラマだった。
慰安所・慰安婦とはどういうものだったのかを知っている世代が健在なうちは、
軍隊のあるところにはつきものの存在として、
当たり前に登場してドラマの一部を作っていたのである。
ところがその世代が社会の一線を退き、慰安婦とは
どういうものだったのかを知らない人が大半を占めるようになった
90年前後から、左翼市民団体が慰安婦を軍隊の「犠牲者」として、
「日本の戦争責任追及」のテーマの一つに加えるようになった。
最初の動きは「朝鮮と朝鮮人に公式謝罪を百人委員会」によるものだった。
この市民団体、団体名は大きいが、実質的なメンバーは
大分県の主婦と在日朝鮮人女性の2人だったという。
同委員会は「朝日ジャーナル」に約半年間にわたって意見広告を掲載する一方、
メンバー2人は韓国に渡り、日本政府に謝罪と補償を求める
裁判を起こすための「原告」を探して回った。
当事者が声も上げていないのに「犠牲者探し」をして回るというのは
偽善の極みだが、これに韓国の「太平洋戦争犠牲者遺族会」が呼応し、
協力を申し入れた。
同「遺族会」は日本に戦後補償などを求める裁判闘争を主な活動とする団体だが、
韓国でも戦中派が健在の時代はこのような運動が盛り上がることはなく、
同会が活動を活発化したのは1988年以後のことである。
こうして日韓双方の反日・戦争責任追及の市民団体が手を組み、
慰安婦を「戦争犠牲者」として運動に利用し始めた。
そしてその際に、最も重要で決定的な役割を果たしたのが
「吉田証言」だったのである。