「公」のための優先順位②
「公」のための優先順位②
「公」と「私」は正反対の視座にあるのだけれど、「私」が「公」に全然関係ないとは言えない。
病気や不幸があれば、「私」が不安定になり、「公」のことなんか考えられない。
自分を守ることで精いっぱいになるのは当然だ。
「ゴー宣DOJO」を例にすると、「公」と言えども、金がなければその場は作れない。
資金のほとんどはわしが出してるから、わしが儲からなきゃ「ゴー宣DOJO」はやれない。
「公」と言えども、わしの健康が失われれば、その場は作れない。
それが現実である。
「志桜里応援DOJO」で、「考えてみたら、わしは中学生の時、イジメにあいそうなときに、クラスの女子が団結して、不良に抗議に行き、わしを守ってくれた」と言ったら、志桜里氏が「今もそうじゃん」と言った。
さすがお見通しだなと感心した。
確かにわしは、今も妻が健康管理してくれ、秘書みなぼんも、わしの健康を気遣ってくれるし、なんと総合Pちぇぶも、わしの健康のために、「歌謡曲を通して」を重要視し、カラオケ練習で、わしの足腰を鍛えようとスパルタ教育をしてくれる。
「先生、筋肉はすぐつくから!内臓は復活できないけど、筋肉は復活できる!」と説教して、立ったまま歌わせて、汗びっしょりになって、翌日、筋肉痛になってたりする。
総合Pにとってみたら、一番「公」のためになるのは、わしの健康維持、老化防止と思ってるから、議論よりも、よしりんバンドの活動だと思っている。
最近は階段の上り下りは手すりにつかまらなきゃ絶対にできない。
昔は手すりはばい菌だらけだから絶対つかまらないと決めてたのに、今じゃ手すりのない階段は、殺人兵器に見えてしまう。
そういうわけで、「歌謡曲を通して」は決して「私事」ではない。
わしの健康こそが「公」に直結しているというチェブリンの考えは捨てたもんじゃない。
長生きしたいとは全く思わないけれど、命は手段として、「公」を達成するために使いたい。