作家の業とマチズモは違う
わしは宮崎駿の100分の1の才能もない漫画家だろうが、
『東大一直線』『おぼっちゃまくん』『ゴーマニズム宣言』シリーズを合わせると、
単行本で2000万部以上は出ているだろう。
他の漫画や活字本まで合わせればもっといくかもしれないが、
漫画本としては大した部数ではない。
まだ大きなヒット作を出せるはずだと思っている。
全然満足してないのだ。
60歳になったら煩悩が減った分、さらに創作活動への意欲と集中力が高まって、
もう時間がないかもしれないという焦りがあるので、死期が迫った
母の見舞いすら億劫になる。
だが現在、母が手術を拒否して、「もう死んでもいい」と言ってるらしいから、
それが「覚悟」か「拗ねてる」のかを確認するために帰らなければならない。
結局、母も妹も親戚も、誰もモノを創り出す人間の「業」を
わかろうとしなかった。
「家族を守れなくて、愛国心なんか言ってるのはおかしい」
と妹が言ってるらしい。
安易な批判だが、面白いからいずれ『家族論』を描き下ろして、
答えてやる。
自民党の憲法草案の薄っぺらさに気付かせるためにも
「国」と「家族」の関係を描いておく必要がある。
そもそもわしは両親から「家も土地もおまえには渡さない。全部、妹に相続する」
と宣言され、勘当されて漫画を描き続けた人間なのだ。
わしは家督を継いだ長男ではない。
ただ戸籍上の長男であるだけだ。
そのことを恨みに思わず、親から謝罪された記憶もなく、逆にわしがそのことを
感謝して 親孝行してきたのに、「見舞いに行かない」という一点のみで、
よく家族を守らないなんて言えたものだ。
センチメンタリズムより創作意欲を優先したいと思うのは、作家の「業」だ。
作家の「業」と「マチズモ」は違う。
女だって創作や芸能の「業」を背負った者はいるだろう。
わしのそばで、わしを見ている妻や秘書は、
わしのマチズモに従う犠牲者だと思っているだろうか?
この話題を、わしは妻とも、秘書とも笑いながらしている。