2017.08.15(火)
『ダンケルク』は映画が芸術だと思い知る
クリストファー・ノーランの『ダンケルク』は9月9日から封切りらしいが、わしはIMAXで見られるという誘惑に負けて、試写で見てしまった。
ノーラン監督は『ダークナイト』3部作でファンになったが、『ダンケルク』でも、あの『ダークナイト』のように、張り詰めたままの緊迫感が流麗に続いていくストーリー展開を、不穏な音響・音楽が下支えするテクニックが使用されていて、一瞬もたるむことがなかった。
「ダンケルクの撤退戦」というと、日本人はあまり知らないだろうが、ドイツ軍によって、フランスのダンケルクの海岸に追い詰められた英仏軍40万人が奇跡のような撤退を果たすという史実なのである。
遠浅の海岸で、大型船が救出に来れない中、陸海空からドイツ軍が攻めてくるから、英仏軍は恐るべき大敗北を喫して、第二次世界大戦の行方は変わっていたかもしれない。
ここでの撤退が成功して、兵力を温存したからこそ、のちのノルマンディー上陸作戦に繋がったのだ。
「ダンケルクの撤退戦」は、それほど重要な史実だったが、この映画の一つの視点である一民間船が、実は勝敗を喫する重大な役目を追うことになる。
こんな父子を乗せた民間船がダンケルクに向かって行って、何ができるんだと思わせておいて、クライマックスである。
わしは、まさにルソーの社会契約論を思い出して鳥肌が立った。
これ以上はネタバレになるが、他の映画評論家は社会契約論なんて言わないだろうから、感動のポイントがわしとは違うかもしれない。
やっぱり戦争映画はハリウッドに敵わない。
日本の戦争映画だと、お涙頂戴の浪花節になってしまって、スマートさがゼロだ。芸術にならないのである。
『ダンケルク』はクールだ。もう一度、映画館で気楽に集中して映像の隅々を見てみよう。