「世間」で承認願望を充たす弱さを憐れむ
読者からの情報によると今夜出演するAbemaTVって安倍政権寄りで、視聴者はネトウヨだらけらしい。
それはそれで面白いかもしれない。
日本人は「世間」で生きることしかできない奴ばっかりで、かつてわしに近かった女性の言論人も、「劣化保守世間」で承認願望を充たす「準男性」になってしまった。
「男系固執は男尊女卑ではない、伝統だ」という男尊女卑の男どもの詭弁に騙され、飼い慣らされ、おだてられている馬鹿な女性ばっかりだ。
「準男性」「論壇ホステス」と化して男尊女卑「世間」で生きていくしかないのは、しょせんは「個人」の力が弱いからである。
「個人」で生きろと言っても、もともと力のない者は無理。
日本で女性が活躍できない真因を、劣化保守の世間から離脱できない彼女たちが表している。
むしろ哀れな女性なのである。
わしは個人で生きる女性の出現を待ち望んでいる。
「準男性」には興味がない。
「準男性」が棲息の場としている「劣化保守」の「世間」にしても、実はわしが『戦争論』や「新しい歴史教科書をつくる会」の運動で、掘り起こした「市場」なのだ。
左翼の市場がやせ細り、右翼の市場が開拓されたのちに、その市場で、現在の自称保守が承認願望を充たし、生計を立てているわけである。
だが、自称保守にネトウヨが合流し、安倍政権の誕生で、ますます劣化した右張りの「世間」は、とうとう憲法9条を容認して、自衛隊だけ明記する安倍晋三の「属国宣言」「戦後レジーム埋没宣言」すら、絶賛するまでに退廃してしまった。
片方に自主独立を恐れる左翼・リベラルの「世間」があり、もう一方に属国を固定化する右翼・ネトウヨの「世間」がある。
そのどちらにも属さぬポジションを、「世間」に安住しない「個人」が集う「公」のための梁山泊として作れるかが、「ゴー宣道場」の課題なのだろう。